吉報は1982年(昭57)2月1日に届いた。センバツ出場校決定。2年生エースの三浦を擁する横浜商(神奈川)にとっては、44年ぶり6度目の春出場だった。大舞台に向け、三浦は投げ続けた。冬の間には1日500球を投げ込んできた。センバツ出場が決まると、毎日のように紅白戦が行われた。19日連続で完投したという。

三浦 どれだけ抑えようが、打たれようが、最後まで投げていた。

そんなとき、アクシデントに見舞われた。右脇腹に痛みが走った。大会後に判明するのだが、右の肋骨(ろっこつ)を2カ所疲労骨折していた。走り込みをしていた際には「バチン」と音が聞こえた。左太ももの肉離れだった。満身創痍(そうい)で迎えた初めての甲子園。痛み止めの注射を打ちながら臨んだ聖地で、快進撃は始まった。

1回戦の八幡大付(現在の九州国際大付=福岡)戦で9回1失点完投。「Y校」にとっては、センバツ初の初戦突破だった。2回戦の愛知戦では、11三振を奪って9回2失点完投。迎えた準々決勝は、早実(東京)が相手だった。

早実は1年夏から甲子園出場していた荒木大輔が3年生となり、優勝候補の一角として挙げられていた。

三浦は投げて打って、早実・荒木に勝った。投げては9回1失点完投。打っては1点を追う7回2死二塁の場面で、詰まりながら同点の左前適時打。本塁への送球がそれる間に二塁を陥れ、次打者の左前打で勝ち越しのホームを踏んだ。翌日の日刊スポーツに「あの同点打で気合の上にも気合が入った」とのコメントがある。その言葉通り、逆転後の7~9回を9人パーフェクトに抑えての勝利だった。

だが、優勝はできなかった。準決勝のPL学園(大阪)戦。2-2で突入した9回に、2死二塁からサヨナラ打を浴びた。聖地を去る三浦の手に「甲子園の土」はなかった。

大会後はケガの影響でノースロー調整が続いた。骨折を完治させるため、カルシウムを多く摂取しようと、アジやサンマなど魚を食べるときは、頭から尻尾まで完食したという。

6月に投球練習を再開したが、調子は上がらなかった。「写真を見たら腕が上がっていない」。自分の感覚と実際の動作に差があり、苦しんだ。取り組んだのは武器のカーブをより曲げること。そして、新たにフォークを磨くことだった。

三浦 野球の七不思議で、1つ変化球を覚えると球速が落ちる。

143キロ出ていた直球の球速は、140キロに到達しなくなった。それまでは直球で3球三振を狙う投球スタイルだったが、カーブとフォークを操れば、3球以内で打ち取れた。その当時の感覚を「楽なことを覚えちゃった」と振り返る。のちに中日入りしたが、0勝で終わるなど苦労しただけに、思うことがある。

三浦 将来的には通用しない。140キロ出ずに通用するのはまれ。逃げちゃダメだと思うね。

ただ、当時は勝つことに必死で、エースとして勝敗を左右する宿命を背負っていた。74年夏に金属バットが導入され、各校の打撃力がメキメキと伸びた時代。三浦が出場を逃した82年夏の甲子園を制したのは、猛打で「やまびこ打線」と名付けられた池田(徳島)だ。勝つためには、変化球の精度を上げることが必要で、ましてや激戦区・神奈川。「一番、県大会がつらかった」と振り返る三浦だが、高校ラストイヤーに春夏とも甲子園切符をつかんだ。(敬称略=つづく)

【宮崎えり子】

(2017年8月30日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)