掛布は習志野(千葉)で2年夏の1972年(昭47)に甲子園出場を果たした。だが結局はこの1回だけで、3年時は春も夏も再び聖地を踏むことは出来なかった。だが掛布も高校野球で多くのことを学び、多くの友人を得て、次なるステップへとつなげていった。

阿部東司、62歳。掛布とは習志野の同学年で、現在は建設会社の社長を務めている。先日、2000安打を達成した巨人阿部慎之助の父親と説明した方が早いかも知れない。

2年生で4番を打った掛布だが、3年生になると3番になった。代わって4番に座ったのが、捕手の阿部だった。甲子園出場時の阿部の打順は6番で、掛布と一緒に甲子園の土を踏み、3安打した。

阿部 ひと言で言えば、野球好きな男です。オヤジさんの影響も大きかったでしょうが、とにかくよく練習していました。我々が穴を掘ってゴルフのまね事をしている時でも、200球入るカゴを打ち続けていました。それでいて、家に帰ってからは新聞紙を丸めたものを打ってたといいますから、驚きです。

掛布の父・泰治は息子には厳しかったが、他の選手には「ホメ上手」で通っていたという。習志野の練習にも顔を出した泰治に、阿部は「怒られたことがない。とにかくホメられてホメられて、その気にさせられる指導者でした」と振り返る。

阿部 確か、掛布は(千葉大会に)170センチ超で登録していましたが、そんなになかったです。168センチぐらいでした。失礼ですが、そんなに見栄えする選手じゃなかった。でも手首が強くて、当時から左中間によく飛ばしていました。私も右打ちで飛ばす方でしたが、掛布はあの体であの飛距離。小さかったけど、体は強かったですね。

掛布が阪神の主力となってから、小学生だった慎之助を連れ、阪神の遠征時に東京の宿舎を訪れたことがある。阿部はロビーに現れた掛布と再会を喜び合い、握手を交わした。習志野時代から大きかった掛布の手は、ひと回りもふた回りも大きく、分厚くなっていた。さらに高校時代と同じような、いやそれ以上のマメだらけでゴツゴツとした手だったことに驚いた。

阿部 もう押しも押されもしない阪神のスターでしたが、高校時代と同じように、いや高校時代よりももっともっとバットを振っているのが、すぐ分かりました。月並みですが、努力のたまものでしょうね。

阿部は右投げ右打ちだった息子の慎之助に「小学2、3年生の時に右目が悪くなったので、左打ちを勧めた」という。だが慎之助自身、掛布の右投げ左打ちが影響したことは否定しない。掛布はどれだけの練習をしてきたのか。父から直接伝え聞き、実践していることも多いという。

掛布も慎之助の偉業を「そこには、習志野野球の流れもある」と喜んだ。慎之助は習志野出身ではない。だが1つの名門校の伝統、同期の絆は、こんな形でつながっている。(敬称略=つづく)

【井坂善行】

(2017年9月6日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)