斎藤には、忘れられない試合がある。2年夏の西東京大会、日大三との準決勝。斎藤が「僕を成長させてくれた試合です。あの敗戦が大きかった」と振り返る一戦である。

早実入学直後は、通学や食事、勉強など生活のペースをつかむのに時間がかかった。だが、夏頃には生活基盤が整い、野球に集中できるようになった。1年夏に背番号18でベンチ入り。新チームになった秋からは登板機会も増えた。2年夏には背番号1を渡され、エースとしてマウンドに上がった。迎えた西東京大会の準決勝。悲願の甲子園出場まで、あと2勝と迫っていた。

05年7月28日。試合前、神宮のブルペンで斎藤は「今日はいつになく調子がいいな」と感じた。だが、日大三打線にはまるで通用しなかった。初回に3失点。得意としていたスライダーを同じ2年生にスタンドへ運ばれるなど、2本塁打を喫した。4回2/3で11安打8失点。1-8の7回コールド負けだった。

斎藤 実力でやられました。中学から高校に入ったときにもレベルが違うなぁと感じたんですけど、それ以上のものを、同じ世代の選手たちに痛感させられた。このままじゃ絶対に甲子園には行けないと思いました。

衝撃の敗戦で、心は決まった。レベルアップの必要性を感じた斎藤は、投球スタイルの変更に着手した。外角球を中心に変化球を交えて抑える形が基本だったが「インコースを突かないと勝てない」と考えた。

この日から、走り込みと、内角への投げ込みに取り組んだ。時には、プロテクターを着けたチームメートに打席に立ってもらった。内角を意識した投球練習のため、仲間の体に当てることも多かったが、斎藤は「ごめん。もう1球」と練習を続けた。多い日には200球。チームメートは、その迫力に「今日は誰が打者役をやるんだ?」と、戦々恐々としていたという。

日大三にリベンジする機会は、秋にやってきた。同年10月29日、秋季東京都大会の準決勝で再戦した。勝てば翌年春のセンバツが近づく一戦だった。

斎藤は、敗戦以後に練習してきた通り、打者の内角をしつこく攻めた。のけぞらせた打者から、にらみつけられた。死球を与えた際にはヤジも飛んできた。それでも徹底して内角を狙い続けた。

斎藤 絶対に甲子園に出たいという気持ちが強くて、そうなっちゃったんだと思います。

一触即発のムードの中で、斎藤は2-0で完封勝利を挙げた。夏には2個だった三振は9つに増えていた。試合後、斎藤は報道陣の取材に「リベンジしたい一念でした。丁寧に低めを突いて勝つことに徹した。夏より成長した姿を見せられたと思う」とコメントしている。

決勝戦は東海大菅生を4-3で破った。早実にとっては、エース荒木大輔を擁した1981年(昭56)以来24年ぶりとなる秋季東京大会の優勝だった。翌年のセンバツ出場を当確させるとともに、明治神宮大会への出場も決めた。そこで、あの男と初めて対戦することになる。(敬称略=つづく)

【本間翼】

(2017年9月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)