谷繁の父一夫は、息子が幼少時から使ってきた野球道具を大切に保管している。広島県庄原市の自宅に「谷繁元信 球歴館」を造り、ファンにも公開する。


谷繁が小学校時代に使っていたキャッチャーミットは、捕球部分に穴が開くほど使い込まれていた
谷繁が小学校時代に使っていたキャッチャーミットは、捕球部分に穴が開くほど使い込まれていた

その中で、捕球部分に穴が開いたキャッチャーミットがある。小学校時代に使っていたものという。しかし、谷繁は小、中学を通じて捕手経験はない。江の川に入って初めて転向したはずだ。

一夫 私との練習で使っていたんですよ。小学生の頃から息子はオールマイティーで、どのポジションもこなせた。キャッチャーにも興味を持っていました。だからミットだけでなく、マスク、プロテクター、レガーズも買い与えて自宅で使っていた。チームの練習には持っていっていませんでしたけどね。

親子で投手、捕手を交互に務めた。

一夫 私が投げる時は高め、低め、内角、外角、そしてショートバウンド。いろいろな球を投げて「体で止めにいくんだぞ」とか教えていました。投げる時は「素早く耳の後ろにボールを持っていきなさい」と。

穴の開いたミットを見れば、どれだけ使い込んでいたか分かる。共に練習した一夫は、なおさらだ。だから、息子が捕手になったと聞いても驚かなかった。

親子での練習は投球だけでない。一夫は自宅の庭にあったこいのぼりを掲げる支柱にタイヤをつけて、打撃練習をできるようにした。トス打撃用にゴルフ練習用のネットをはり、夜でも練習できるよう300ワットの電気を設置した。中学になると30キロ、10キロのバーベルを特注した。息子の練習を全面的にサポートした。


父一夫さんが自宅庭に設置したタイヤを使って打撃練習をする少年時代の谷繁
父一夫さんが自宅庭に設置したタイヤを使って打撃練習をする少年時代の谷繁

一夫 でも、私が練習をやらせたんじゃありません。私がやらされたんです。私が帰宅すると「キャッチボールやろう」と。本当に野球が好きな子だった。

谷繁は小学2年で東城ストロングボーイズという軟式チームに入った。規約では入団は3年からだが、谷繁少年は練習に行って球拾いなどを手伝った。そこで特例が認められた。

それだけ野球好きだった谷繁が、野球から離れた時期もあった。谷繁は「中学2年」、一夫は「小学5年」と言う。親子で記憶に違いがあるが、ここでは谷繁本人の証言を紹介する。

谷繁 理由は忘れたけど、他校の生徒とケンカをしてね。殴って、目に大けがをさせてしまった。幸い大事には至らなかったけど、オヤジが怒ってね。「もう野球をやめろ」と言われ、練習に行かなくなった。中学2年の9月から2月ぐらいまで、半年ぐらいじゃないかな。

これが、東城ストロングボーイズで代表を務めていた近藤護の耳に入った。近藤は「野球をやめてはいけない」と言い、一緒に一夫に謝ってくれた。おかげで野球を再開できた。

一夫 実は、代表や監督とは裏で話ができていました。本当にやめさせるつもりではなかった。勉強はせんし、言うことを聞かないから、おきゅうをすえるためでした。

広島県比婆郡(現在の庄原市)の豊かな自然と、両親や指導者の愛情に恵まれ、谷繁少年はたくましく育った。

高校時代に話を戻そう。捕手にコンバートされた谷繁だが、1年の夏は「5番一塁」で島根大会に臨んだ。

(敬称略=つづく)【飯島智則】

(2017年9月23日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)