生まれ故郷の広島に帰るチャンスもあった。ドラフト1位候補に躍り出た谷繁は、巨人、大洋(現DeNA)と共に広島からも熱心に声をかけてもらった。父一夫には、帰郷を期待する思いもあった。

一夫 100%、カープは来てくれるもんと思っていた。ただ、ドラフトの1カ月ぐらい前から、ちょっと様子が変わりましたね。

ドラフトが11日後に迫った11月13日、駒大・野村謙二郎が「広島しか行きたくありません」と逆指名した。この時、新監督の山本浩二は「野村もいいが、谷繁も魅力があるしなあ」とコメントしている。だが、最終的に野村を1位指名した。

幼少時からファンだった巨人も熱心だったが、2位で指名したい意向を持っていたようだ。そのためには谷繁が「巨人以外なら社会人」などと表明する必要があった。

一夫 「息子がほしいなら、他球団と競合しても指名してください」と言いました。息子には求められるチームで頑張らせたかったんです。

11月24日、谷繁は大洋から1位で単独指名された。指名された瞬間に笑顔を見せ、ガッツポーズをした。

広島で生まれ育つも、広島工の受験に失敗して島根の高校に入った。プロも地元球団には入れなかった。

谷繁 広島には縁のない野球人生でした。

プロ入り後の活躍は、言うまでもない。1年目から1軍に入り、横浜、中日を正捕手として優勝に導いた。2013年には捕手では野村克也、古田敦也に続く3人目の通算2000安打を達成した。15年には野村を抜き、通算3021試合出場というプロ野球新記録を打ち立てた。何より、27年間という長きにわたって現役選手であり続けた。

谷繁 ユニホームを脱いで評論家になり、あらためて思うんですよ。プロでやるって、すごいことだと。今もシーズン終盤で、体力的にも精神的にも厳しいところでしょう。夏の暑い中や、重圧のある中で毎日やっている選手たちを「すごいなあ」と思って見ている。やはりレギュラーでやり続けるには、体もメンタルもタフじゃないとやっていけない。外から見て、再認識しています。

谷繁は、なぜ続けられたのか。その原点を探るとき、やはり江の川で過ごした3年間にたどり着く。

決して順風ではなかった。受験失敗に始まり、投手失格から捕手へのコンバート。初めての甲子園では手も足も出なかった。センバツ出場が確実と言われながら、まさかの落選もあった。しかし、どの場合も谷繁は次の目標に切り替え、前を向いて歩んできた。長いプロ野球生活も、この繰り返しだった。

谷繁 もし江の川に行っていなかったら、プロに行けなかったと思う。今こうして、高校時代についての取材を受けることもなかったでしょう。自分で切り開く道もあるけど、突然のように目の前に現れる道もある。その道が運命ということもある。

中日の監督は、志半ばで退任を余儀なくされた。悔しい思いもある。だが、彼は心中で次の目標を定めているはずだ。クヨクヨと思い悩むより前へ向かう。15歳の少年時代から、それは何も変わらない。(敬称略=おわり)【飯島智則】

(2017年10月1日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)

高校時代を振り返る谷繁氏
高校時代を振り返る谷繁氏