日本が平和国家に生まれ変わる転換点だった。1945年(昭20)夏。第2次世界大戦が終結したが、その1カ月前に四国高松で松島小学校に通っていた中西は、突然の空襲にあっている。

高松市内に空襲警報が鳴ったのは、7月3日午後11時のことで、日付が変わった翌4日午前2時56分を境に米爆撃機B29に狙われる。当時の記録によると、高性能爆弾24トンと焼夷(しょうい)弾809トンに襲われたという。

今から72年も前の悲惨な出来事。戦前戦後を生き抜いてきた中西は、あまり具体的に語ってこなかった。今回、小学6年生だった当時の市街地に火の雨が落ち続けて、たちまち火の海に包まれた光景について静かに口を開いた。

中西 私はおふくろが姉のところに手伝いにいっていたから、1人で留守番をしていた。なにかあったとき、これをもって逃げろと教えられていた荷物をかついで家を飛び出した。大したものは入っていないが、それを持って家の前にあった防空壕(ごう)に入った。最初はいつもの訓練と思ったが、今橋駅近くの食堂に「ドンッ!」と爆弾が落ちた。まだ子供で、後になって大勢の大人の列についてゾロゾロと歩いた。途中で馬が暴れたりしたし、人々は離ればなれになった。

その後、どこを、どのように歩いたのか…、とにかく列に連なって歩いたのだという。目の前に広がった塩田には、容赦なくあたりを照らすような砲弾が「ザーッ」と音を立てて落ち続ける。

中西 子供だった私は1人で歩き続けたが、気付いたときには、塩田の隣にある畑にポツンと座っていた。どうやってそこに着いたのかは、はっきり覚えていない。そこで暗がりに「ダーッ」と照明弾が落とされるのを、黙って見ているしかなかった。後で家に帰ってみたら、狭い防空壕はつぶれていた。そこに逃げ込んだままだったら今はない。親友も亡くなった。よく生き延びたと思う。住めるようなものではなかったが、2階建ての借家はかろうじて残っていた。運が良かったとしか言いようがない。

高松は市街地の約80%が消失して焼け野原になった。広島、長崎が襲われた後、中西が小6だった夏に終戦。日本は戦後の歩みを踏み出すのだった。戦禍のなか、唯一残った高松第一中学(旧制)に入学。予科練帰りの先輩らと一緒に、挙手の敬礼、歩調をとる命令に従った。野球部に入部した中西だが、まだまだ軍隊色の濃い時代で「精神野球」をたたき込まれるのは自然の流れだった。(敬称略=つづく)【寺尾博和】

(2017年10月24日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)