岡山東を撃破した高松一は、2回戦で福島商と対戦した。1951年(昭26)8月16日。中西は発熱と震えに襲われ、試合前練習に現れず、医務室で休んでいた。

スタメン表を提出するギリギリまで悩んだが、主将の責任感もあって強行出場した。打席に立った中西は6回、2試合連続のランニング本塁打を放つ。後に近鉄パールス入りする投手の荒井(水野)健が、2-0の完封勝ちを収めた。

準々決勝の芦屋(兵庫)戦で登板してきたのは1つ年下の植村義信だ。のちに日本ハム監督などを歴任した植村に対し、中西は二塁打1本で4打数1安打に終わったが、チームは6-2で快勝する。

1回一、二塁で打席に立った4番中西が、二塁ライナーで併殺になった。しかし、正面でつかんだ芦屋二塁手の橋本が、弾丸ライナーの勢いで後ろにひっくり返ったのは、今でも語り草になっている。

中西 植村は当時ドロップといって、落差のあるカーブを投げる好投手だった。それに銀傘の影が伸びてボールが見づらかった。私のライナーに二塁手が押されたのは今でも覚えている。

準決勝の平安(京都)戦は厳しい戦いだった。敵将の西村進一は、45年3月南太平洋のラバウル戦線で右手首を失っていた。左手1本での隻腕ノックが話題になった。

平安エース清水宏員に8回を終えて0-4とされた高松一が9回に猛反撃にでた。1番原口明雄が二失、続く植原毅の投ゴロで走者が入れ替わる。3番太田幸真が遊安で出塁した。

ここで4番中西が放ったのは「あれがエンタイトルツーベースでなければ、少なくとも同点になっていた」と悔やんだ左越え二塁打だった。結局1点差まで迫ったが、あと1本が出ずに惜敗した。

平安はこの大会で優勝した。高松一の最後の打者になった「9番一塁」の後藤武司は、今でも2死満塁から間一髪になった投ゴロを悔やむ。

後藤 舛形監督から清水の得意のカーブを捨てて直球狙いの指示を受けた。でも1球目が外角ぎりぎりにカーブを決められ、2球目もカーブで2ストライク、次の球もカーブだった。最後は高いバウンドが清水の前に弾んだ。一塁にヘッドスライディングをしたがアウトになった。後でみんなに「お前がもっと足が速ければ勝っていた。一塁も走り抜けたほうがよかったのに」と突っ込まれます(笑い)。

芦屋戦を一塁側、平安戦を三塁側観客席でみたのは、高松一出身の池田實(みのる)だ。野球部には所属していなかったが、先輩にあたる中西とは30年以上の付き合いをしている。

池田 中西さんのレフトオーバーの二塁打はホームランだと思いました。それほど当たりが強かった。今も伝説の、ショートがジャンプした打球がスタンドに入ったというくらいだからすごい打者でした。

名門高松一の大先輩に同校野球部OB会長の伊藤良春は「四国が生んだ最高の野球人の1人。崇高な人であるとともに、思いやりのある先輩です。高松一OBの誇りです」という。

高松一は力尽き、史上最強の右打者といわれる中西の甲子園が幕を閉じた。(敬称略=つづく)【寺尾博和】

(2017年10月31日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)