星野が倉敷商に入学して1年が過ぎようとしていた。

学校から2キロほど南に下ると、小高い山の頂上に足高神社がある。明大出身の矢吹恬一監督は、冬場になると神社の階段を10往復させるランニングを日課とした。「階段の高さが一定じゃなくていびつで、リズムが取れない。1回走れば息が上がるんだけど…監督が途中で待って、目を光らせているんだ。だから、サボれんのだ」。厳しい練習をかわす“要領”を身に付けていたはずが、矢吹の目はごまかせなかった。


13年8月、楽天-ロッテ戦の試合前、恩師で倉敷商の矢吹恬一元監督(左)から激励され笑顔を見せる楽天星野監督
13年8月、楽天-ロッテ戦の試合前、恩師で倉敷商の矢吹恬一元監督(左)から激励され笑顔を見せる楽天星野監督

3年生の宮原が抜け、星野はエースの座を確保。矢吹と「君の力で倉商を甲子園へ連れて行ってくれ」と星野を誘った部長の角田有三は、厳しさの中に温かな視点をたたえた教育者だった。星野が「(角田)有さん! カキを取りに行こう」と言えば練習を中断し、みんなでカキの木に登って木陰でほおばった。

2人は人生の師になった。矢吹に「オレの出身だ。明治へ行け!」と言われ、素直に従った。80歳の今も「いい兄貴分だ。いまだに付き合っている」。角田は4年前の5月、86歳で死去した。「部長先生はノックもうまくないんだけど、野球を愛していた。悪く言う人が1人もいなかった。本当にお世話になった。熱烈な阪神ファンで、オレが阪神に行ったときは大喜びしてくれた」。亡くなる直前まで親交は続いたが、角田は最後まで“部長先生”を全うした。入院先への見舞いは拒まれ続けた。星野が「窓の外からひと目だけでも」と食い下がっても、断られた。


倉敷商時代・星野が足腰を鍛えた足高神社名物の階段
倉敷商時代・星野が足腰を鍛えた足高神社名物の階段

「至誠剛健」を校訓とする倉敷商は、野球部員にも文武両道を求めた。「県立高校だから、試験が厳しかった。40点以下の“赤点”を4つ以上取ったら、次の学期まで練習は禁止。4番だろうがエースだろうが、とにかく40点以上取らなくてはいけなかった」。星野は数学が大の苦手で、角田は数学の教師だった。

試験前は野球部員を集め、しばしば補習が開かれた。試験に出そうな問題の傾向を丁寧に教えてくれた。「これで赤点を取ったら…もし数学で4つ目なんてことになったら…部長先生の責任になってしまう」。一生懸命には聞いたが、星野にとって数学が鬼門の科目であるのには理由があった。

手が大きすぎた。「あまりに指が太くて、そろばんを正確にはじけないのだ。玉が1つ動いたのか、2つ動いたのか? とにかく、まったく計算が合わない」。野球においては最高の武器でも、商業科では2年まで必修であるそろばんでは最大の弱点になった。

幸運にも、そろばん部の部長が前の席に座っていた。「そろばんを使ってなかったな。暗算で、スラスラッとな」。そっと脇を空けて答案を見せてくれた。テストが返ってきた。「うわ~。47点。大丈夫だ」。星野が野球をできないなんて困る。クラスメートだけでなく、倉敷商の共通認識だった。

無事に2年生になった。「元気のいい時代だったよな」。1963年(昭38)。東京五輪を翌年に控えていた。(敬称略=つづく)【宮下敬至】

(2017年11月6日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)