「ホシが自転車で通った道を、たどってみようか」。倉敷商でチームメートだった藤川當太(71)がハンドルを握り、倉敷市内から瀬戸内海へと向かった。

水島工業団地の真ん中に三菱自動車の工場がある。海を見ながら一服した。「風景は当時と変わってないなぁ。工場の建屋もそのままだ」。海路の往来はせわしなく、煙突の煙がたなびいている。「ホシの家は…三菱の寮はもうないね」。工場から徒歩10分、寮の跡地は病院になっていた。「学校まではけっこう遠い。自転車なら40~50分かかる。毎日こいでりゃ足腰も強くなる」。途中から細い道に入り、縫うように進んだ。

藤川と星野の出会いは中学のころだ。「なぜか試合中のホシと口論になった。私はスタンドで観戦してたんだけど」。入学式で「おう、よろしくな」と後ろから肩を組まれ意気投合、クラスも一緒で竹馬の友となった。スズメを狙って警察に叱られたポンプ銃は「私が仕入れたの。当時の最新鋭よ」と笑った。

「野球部の結束は固かった。隣のクラスのヤツに殴られたと聞けば、ホシと突入。前と後ろに分かれて『誰だ』と探し出した。でもホシは、弱い者いじめは絶対にしなかった」。口数が多い方ではないが、いつも星野の隣にいた。

甲子園に届かなかった3年夏の東中国大会決勝、米子南戦。藤川は前後までよく覚えていた。普段と違う様子を心配し、夜の雑魚寝は星野の隣を確保した。「暑い夜だったが、ホシは暑さというより、興奮して寝付けないようだった。何度も寝返りを打って起き上がり、下の階に降りて、動き回ったりしていた」。

試合は2-3で敗れた。「1番左翼」でスタメンの藤川が回想した。

「逆転された4回は、ボテボテで三遊間を抜けるレフト前がよく飛んできた。ホシはカッとなると、とことん打者に向かっていくクセがあった。悪いことではないが、内角を狙われた。どん詰まりだからランナーが突っ込んできて、なかなかアウトにできなかった。相手は変則ピッチャー。バントの打球が土の具合でファウルになったりして、崩せなかった」

宿舎の好日荘に戻り、藤川は出窓に腰掛け、畳の部屋に背を向けて泣いた。晴れ晴れした様子の仲間もいたが「明るく振る舞っている気持ちが分からなかった」。星野は終始、沈んでいた。「倉商の練習は厳しい。30~40人いた部員がどんどん辞めていって、最後は1学年10人いるかいないか。『やり切った』という気持ちがあった。あれだけ厳しい練習に自分は耐えた」。野球はすっぱりとやめた。「当時は大学に進むという選択肢は非常に狭かった。倉商の同級生で大学でも野球を続けたのは、ホシと咲本だけですよ」。(敬称略=つづく)【宮下敬至】

(2017年11月9日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


水島臨海鉄道の終点、三菱自工前
水島臨海鉄道の終点、三菱自工前