広瀬が野球というスポーツを知ったのは、大野小(現大野西小)4年のときだった。

広瀬 アメリカ帰りの谷口先生という方が、体育の時間に教えてくれたんや。そこで初めてボールに触った。先生が投手をして、我々が打つんだけど、野球なんかやったことがないから打てるわけがない。でも、面白かった。

当時は遊びが少なく、陸上や野球などに限られていた。女子も野球をやっていたという。広瀬は野球にはまった。翌年には学校がグラブやバットなどを用意してくれて、野球クラブのようなものができた。広瀬はそこで初めてグラブを手にした。プロで遊撃手、外野手として活躍した原点だった。

広瀬 何もかも初めてのことばかりで、どういうふうにやったのか覚えていない。ただこれが野球なんやと。テレビで野球中継があるわけでもなく、まったくの自己流でプレーしていた。先生の投げる球を捕れる子どもがいないので、指名を受けてオレが捕手をやった。投手もやった。おかげで肩が強くなったのかもしれんな。

初めての対外試合は小6のときだった。近隣の小学校のチームと対戦した。

広瀬 対外試合をやるというので、ビックリした。どんな試合だったのかは忘れてしまったけど、しっかり投げたとは思う。とにかく楽しかったことは覚えている。

大野中に進んでも野球を続けた。陸上部監督の弟がコーチを務めてくれた。この陸上部監督は、広瀬の身体能力の高さに目を付け、ことあるごとに陸上への転向を勧めている。それを、やはり広瀬の能力を高く買っていた野球部のコーチが断るというやりとりが、何度もあったという。校内の陸上大会で、陸上部の先輩を抜きかけて「陸上部に勝っちゃいかん」と、1位を譲ったこともあるという。当時からずばぬけた存在だったのだ。

野球部はできたばかりで、予算も少なかった。そこで広瀬が生徒会に入り、予算獲得を狙った。

広瀬 グラブもなんにもないもんだから、部費が少しでも多く欲しかった。各部を代表して予算の取り合いをするんやけど、そこでいろいろと手を尽くして多めにもらった。他部に「なんで野球部だけそんなに多いんですか」と泣かれたくらい(笑い)。それでファーストミットとかキャッチャーミットとかを買ったんじゃないかな。

広瀬は1年からレギュラーで、3年になると投手兼遊撃手を務めた。打順も3、4番を打った。チームとしても地域では強く、広瀬の名前も徐々に知れ渡っていった。

広瀬 今でもそういうのはあるんだろうけど「大野中にいいピッチャーがおる」とウワサになっていたらしいな。

強豪の観音(現広島商)からも声がかかった。だが、広瀬は見向きもせずに大竹に進学する。(敬称略=つづく)【高垣誠】

(2017年11月16日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)