現在は休部状態とはいえ、甲子園で7度の全国制覇を誇るPL学園を語る時、この人物を抜きには語れないだろう。

井元(いのもと)俊秀、81歳。PLの1期生で、学習院大時代は投手として神宮で活躍した経験を持つ。野球の実績だけでなく、元スポーツ紙の記者でもあり、プロアマ問わず、球界における人脈には定評がある。

PLでスカウトを務めていた井元に、「和歌山にすごいピッチャーがいる」との情報が入ったのは、1975年(昭50)の年明けだった。しかし、4月になって、この中学生にはPL進学を断られた。落胆した井元だったが、「もう1人、いい選手がいます」と聞きつけ、和歌山市にある河西(かさい)中学へと足を運んだ。西田真二だった。

その時の光景を、井元は鮮明に記憶している、という。PLに関係する選手は、のべ500人を超える素材を見てきた。だが、「こんな型破りなタイプは、後にも先にも西田がNO・1」と断言する。

井元 ちょうど目当ての西田がバッティングをしていたのですが、いつまでたっても西田しか打たない。つまり、他の野球部員を全員で守らせて、一人打ち続けているんです。それが終わると、今度は西田がノックをする。他の野球部員全員が、西田のノックを受けていました。

直感的に、井元は「面白い素材」と見抜いた。しかし当時、和歌山には神奈川の東海大相模も情報網を張り巡らせており、すでに西田の元にも、元巨人監督・原辰徳の父親である監督の原貢が熱心に勧誘に動いていた。

負けず嫌いな井元は、「西田争奪戦」に血が騒いだ。70年の夏の52回大会、初めて甲子園で決勝に進んだPLは、原貢率いる東海大相模に6-10で敗れている。その雪辱もあり、井元の「西田詣で」が始まった。

メモ魔でもある井元の当時の手帳には、西田獲得のために日参した36回の日時が記されていた。西田の自宅の電話番号は「0734-51-○○○○」。今回の取材でも、もう40年以上前のことをスラスラと覚えていたほどだ。

井元はPL進学に対する西田の条件を聞いて、仰天する。

「ピッチャーはボク1人でいいです。他のピッチャーは取らないでください」

井元に情報をくれた人が「全国制覇するか、PL野球部がつぶれるかという選手」と語ってくれた理由が、この時初めて理解できた。

(敬称略=つづく)【井坂善行】

(2017年11月22日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)