全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第2弾は、智弁和歌山を率いる高嶋仁さん(71)です。歴代最多の甲子園64勝を積み上げてきた名将の物語を、全5回でお送りします。

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胸のポケットに封筒をしのばせ、高嶋は理事長室の扉の前に立っていた。智弁学園(奈良)監督時代は成績不振の責任を取り、3度辞表を書いた。だが、この日は違う理由で、理事長の藤田照清(09年死去)に辞表を出そうとしていた。

08年9月10日、日本高野連は高嶋の暴力行為を発表した。同7日の練習試合中、投手の制球力や打者の打撃内容の悪さを戒める狙いで部員2人を数回蹴った。同高野連の裁定の前に、学校は高嶋の謹慎を決めた。

高嶋 やめるのにちょうどええ機会やと思いました。膝がずっと痛かったし、なんやかんやあって。

08年夏、2年生エース岡田俊哉(中日)を擁し、高嶋は8年ぶりの優勝を狙っていた。だが、鍛え上げたはずのチームは思うように機能せず、準々決勝・常葉学園菊川(静岡)戦で敗退。落胆が心身の疲労に拍車をかけた。暴力行為が許されないことなど百も承知。それでも自制が利かなかった。キャリアに自ら、高嶋は幕を引こうとしていた。

しかし、理事長室の扉を開けた高嶋が見たのは、藤田の柔和な顔だった。藤田には智弁学園時代に書いた辞表を3度とも「こんなもん書く暇あったら、練習せんかい!」と破り捨てられていた。そんな藤田に穏やかな顔で迎え入れられ、言われた。「甲子園で何回も優勝しとる監督に、わしは何も言うことはない。お前がどつくっていうことは、こいつをなんとかしようと思うてのはずや」と。さらに、続けてかけられた言葉は「四国をちょっと歩いてこいよ」。四国とは、弘法大師空海ゆかりの八十八カ所の札所寺院を歩いて巡る四国遍路のことだった。

高嶋 膝があまりよくないんで「嫌です」と言えばいいのに「ええですね」と言うてしもたんです。(胸のポケットにあった)辞表に手が届く前に決まってしまった。

甲子園歴代2位の55勝を挙げていた百戦錬磨の62歳は、藤田の言葉でねじ伏せられた。藤田は、日体大の学生だった高嶋のもとに自ら出向き、高校野球の指導者への道を開いてくれた。頭の上がらない相手だった。智弁学園時代の77年センバツで準決勝で力尽きたときも、4強をねぎらうどころか甲子園正面で待ち受け「お前の負け方はいっつも一緒や」としかりとばされた。ただ、日本高野連元事務局長の田名部和裕は、揺るぎない信頼関係を2人の間に見ていた。

田名部 藤田先生の信頼が一番厚かった。藤田先生の姿が高嶋さんに乗り移っているような印象があった。こういう高校野球を目指さなければというものが藤田先生の中にあって、和歌山で高嶋さんにそれをやらせようとしたのだと思う。

藤田が追い求めた高校野球の理想の体現者が、高嶋だった。高校野球においては一心同体。その藤田が「四国遍路」という再生の道を示してくれた。受けないわけにはいかなかった。徳島県にある1番札所で作法を習い、和歌山に戻って白衣(はくえ)、菅笠(すげがさ)など遍路用品をそろえた。例年ならセンバツへの戦いが佳境を迎える9月下旬、高嶋は大阪駅から高速バスに乗り、1番札所の竺和山一乗院霊山寺に旅だった。(敬称略=つづく)【堀まどか】

◆高嶋仁(たかしま・ひとし)1946年(昭21)5月30日、長崎県生まれ。海星(長崎)で外野手として夏の甲子園に2回出場。日体大卒業後、72年から智弁学園監督、80年から智弁和歌山監督。94年春に甲子園で初優勝し、その後97年、00年夏に全国制覇。主な教え子は元阪神中谷仁、ヤクルト武内晋一、日本ハム西川遥輝ら。甲子園64勝(33敗)は歴代最多。春夏36回出場は福井商・北野尚文元監督と並ぶ歴代最多タイ。

(2018年1月7日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)