1980年(昭55)秋、中村順司は前任の鶴岡泰からチームを引き継ぎ、PL学園監督に就任した。名古屋商大卒業後にキャタピラー三菱(当時)で7年間社会人野球に打ち込み、76年から教団に請われて母校にコーチで戻っていた。

プロ野球選手から指導者へと将来の夢を切り替え、大学進学を希望。名古屋商大のセレクションを受け合格したが、福岡・中間市に住む両親には事後報告だった。PL学園に進むとき、プロ野球選手になる夢を果たせなければ家業の理髪店を継ぐのが父との約束。だが、野球部寮長の説明で、父は進学を認めてくれた。

中村 学費もかかる中で進学を許してもらったとき、必ず4年で卒業する、余分な金を親に使わせない、教職(教員免許)も取ると決めました。

経済的な負担だけではない。遠くで生活する子供を思い続ける親心を知り、さらに母校でコーチを経験したことが中村に選ぶ道を決めさせた。

鶴岡はレギュラーを鍛え上げ、78年夏に教団、学園悲願の全国制覇を成し遂げた。翌春センバツも4強入り。全国区の強豪になったチームを引き継ぎながら、中村は練習の形態を大きく変えた。レギュラーの区別なくチーム全体が同じ練習に取り組むようにした。

中村 僕にとって選手はPLの後輩。試合に出られない、練習も十分に出来ないと寂しい思いをしている選手がいた。それでやめる者もいた。それなら同じ練習をして、ノックも打撃練習も走ることも一緒にする。競争の中で負けるならしようがない。親元離れて寮生活して、途中でやめて行くってかわいそうだと思ったんです。

コーチ時代の中村は、レギュラー外の選手の担当だった。えりすぐりのレギュラーを鍛えあげて全国王者を勝ち取った前チームの強化法も認めた上で、中村はレギュラー外の思いにも応えようとした。

中村 高校時代ってまだ夢の途中。同じ練習をさせて競争させるのは指導者にとって大事なことなのではと思いました。

さらに全体の練習時間を約3時間に短縮した。

中村 午後8時か9時に練習が終わってバタンキュー。それでは疲れがたまり、大学や社会人に進めない、進みたくない。そんな燃え尽き症候群みたいな子を作っちゃいけないというのは心にありました。

長時間の全体練習に代わって充実させたのが、自主練習だった。全寮制のPL学園には、特定の上級生の身の回りの世話を特定の下級生がする「付き人制度」があった。付き人の助けを借り、それぞれが個別練習に打ち込んだ。

中村 ティー打撃3箱4箱打つ中で、ボールを上げてくれた後輩に10球でもいいから打たせてやれと。そこでポイントを教えてやる。バットの握り方、体の使い方。そういうことを教えてやったら、また次の日も何かを得ようとしてくる。先輩から何かを盗もうという気持ちになる。

野球を嫌いにさせない。中村の指導の基本だった。

鶴岡の後任を決めるとき、当初は違う人物を推す声があった。流れを変えたのはPL教団の第2代教主・御木徳近の一言。「彼は何かを残す」と教主は中村を選んだ。(敬称略=つづく)【堀まどか】

(2018年1月18日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)