1981年(昭56)春、PL学園監督の中村順司は甲子園の初采配を優勝で飾った。翌年の春も制し、史上2校目のセンバツ連覇。83年夏も頂点に立ち、84年春の決勝で岩倉(東京)に敗れるまで20戦負け知らず。20連勝の15戦目は83年夏の準決勝。史上初の夏春夏3季連続優勝を目指す池田(徳島)との対戦だった。

甲子園で指揮を執った全68試合で、中村がベストゲームに挙げる一戦だ。水野雄仁(元巨人)江上光治らを擁し当代最強といわれた池田に対し、PL学園はエース桑田真澄、主砲・清原和博と投打の軸は1年生だった。

中村 エースと4番が1年の発展途上のチームが、まさか池田相手に先手を取るとは見ている人たちは思いもしなかったでしょう。

桑田は水野から本塁打を放ち、池田を完封。その日を境に、高校野球は新時代を迎える。桑田、清原は甲子園の歴史を変えるコンビになった。高校3年間で甲子園の優勝2度、準優勝2度。2人の卒業後も、2年後の87年に立浪和義主将(元中日)らを擁し、甲子園春夏連覇を達成した。

中村 僕は監督として選手に甲子園出場とか全国制覇とか、そこまで背負わせたくないな、と思った。選手は甲子園とか全国制覇とか、そう思っている。なのに僕がまた口にしたら、プレッシャーになったと思うんです。だから選手には「甲子園で校歌を歌おうぜ」と声をかけました。

78年夏に甲子園で初優勝し、PL学園が「甲子園出場」「全国制覇」を最も意識しだした80年秋に監督に就任しながら、中村はその目標を言葉にはしなかった。監督が選手にかける言葉の重み。それを中村はPL学園2年の春に痛感していた。

遊撃手で先発した近畿大会大阪府予選決勝・浪商(現大体大浪商)戦の初回、1、2番打者の打球を中村は連続で後逸した。3番は四球で無死満塁となり、現在DeNAのGMを務める4番の高田繁に、藤井寺の左翼フェンスを直撃する走者一掃の二塁打を打たれた。初回4失点の元凶を作り、攻守交代でベンチに戻りながら中村は監督に殴られることを覚悟した。

中村 そうしたら監督さんが「順、お前、試合中に女のことなんて考えとったらつまらんぞ」って言われたんです。奥歯をグッとかみしめて行ったんだけど、緩んで肩の力も抜けて、その後はエラーもせず試合にも勝ったんです。

立大卒業後にプロの松竹ロビンスなどでプレーしていた綱島新八だった。決勝後、下関商との練習試合に備えて山口に向かう夜行列車の車中で、会話は続いた。

綱島「順、お前、今日どう思った?」

中村「監督さんにパンチ食らうか蹴飛ばされるか、そんな覚悟でいました」

綱島は笑った。そして自身のプロ時代に中前打を後逸し、0-1で負けた試合のことを話してくれた。

中村 監督がそんな人でなかったら、その後PLでチャンスを頂けたかどうかは分からない。そういう監督に出会ったというのは心の隅にあります。勝ちたい気持ちはみんな持っている。それ以上できませんというようなことは、言う必要じゃないんじゃないかな。

力を存分に発揮させることこそ監督の仕事。結果は後からついてきた。(敬称略=つづく)【堀まどか】

(2018年1月19日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)