1981年(昭56)巨人3位の吉村禎章(現巨人打撃コーチ)から、中村順司は多くの教え子をプロに送った。監督としての初代チームのエース西川佳明は、法大を経て南海(現ソフトバンク)の1位に。その後も桑田真澄(85年巨人1位)清原和博(同西武1位)立浪和義(87年中日1位)福留孝介(98年中日1位)らがプロに巣立った。各教え子の活躍が、PLブランドを揺るぎないものにした。12年に名球会入りし、今秋ヤクルトヘッドコーチに就任した宮本慎也もその1人だ。

宮本 ヤクルト入団時のバッテリーコーチだった柴田猛さんは、バントシフトでショートの僕の入るフリやタイミングを見て「やっぱりPL出てる選手やな」と言われたそうです。オリックスのコーチ時代の松山(秀明)さんが印象的だったみたいで「そんなに足は速くないのに、勝負どころで頼りになった」と言われてました。「PLの選手は、たとえレギュラー取れなくても何かで使えるヤツが多い」とよく話しておられました。

「使える選手」を生み出したものを、宮本はこう分析する。

宮本 例えば入学までは何でも正面で捕らないといけないと教わってきたのが、中村監督は「アウトにすることをまず第一に考えなさい」と言われた。そうなると逆シングルになっても仕方ないというのは、高校生にとっては衝撃的でした。当時の高校生の常識よりはみ出して教えていただいてました。だからいろんな考え方ができた。

画期的な指導が選手の柔軟性、多様性につながった。中村が導入した練習方法も奏功した。

宮本 普通の高校生なら5~6時間練習して、与えられたメニューをやっていく形。PLは全体練習3時間であとの自由時間をどう使うか。となると、考える時間が多くなる。PLには「付け人制度」があったので、先輩の練習を手伝い、周りを見たりしながら足りない部分を練習する。環境が良かったと思います。

全寮制で、寮生活は厳しかった。「少々のことには耐えられる根性が身についた」と宮本も苦笑する。

宮本 ただ考え方も技術もレベルの高い選手が多かったんで、いろんな話も聞けました。PLに行ってなかったら、たぶんプロには行けてない。高いレベルに必死に追いつこうと一生懸命にやっていたんで。

上級生の厳しい指導の中で理不尽な仕打ちがあっても、下級生に向上心をなくさせない。そのバランスがPL学園の環境だった。先輩が甲子園で結果を残し、一流選手へと成長していく。その過程があるから、後輩も続いた。「さらに…」と宮本が続けたことがある。

宮本 卒業後に中村監督の指導を振り返ったとき、やはり心に残っているのは「人としてちゃんとしなさい」ということ。人としてどうあるべきか、ということが監督の教えの基本でした。

体の仕組みを丁寧に説明し、ケガの防止に努める。合理的な指導で選手を上達させる。同時に中村は、教育者だった。(敬称略=つづく)【堀まどか】

(2018年1月20日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)