中村順司が文字で残した夢は、プロ野球選手だった。生まれ育ったのは福岡・中間市の炭鉱町。西鉄ライオンズの黄金時代で、少年たちは中西太、豊田泰光らスター選手にあこがれた。最盛期の炭鉱町には準硬式の野球チームがあった。三角ベースに興じ、中西らをまねて中村はバットを振った。常に野球が身近にあった。小学6年の作文に、中村は「将来の夢はプロ野球選手」と書いた。

同時に、心引かれた仕事があった。教員だった。

中村 夏休みや正月、友だちと一緒に担任の先生の家に遊びに行きました。そこに、ぼくらより前に教わった先輩がたも来られていた。ああ、先生っていいな。卒業してからも生徒が訪ねてきてくれると、先生へのあこがれのようなものが生まれたんです。

名古屋商大で教員免許を取得。卒業後の進路には社会人のキャタピラー三菱(当時)で野球を続けることを選んだが、心の中で教員になる将来像を育んでいた。

中村 将来は海とか山とか(がある)そういうところで先生になれたらいいなと。それが次の目標に変わっていった。都会で強いチームとか、そんなのでなくていい。監督になって甲子園に行こうとか、そんなのでなくて、野球という競技を、素晴らしいスポーツを伝えたいというのが原点でした。

忘れられない言葉があった。父亮を説得し、親元を離れて進学したPL学園で、PL教団の第2代教主・御木徳近が野球部に贈った言葉を書いた掛け軸を見た。中村がのちに座右の銘にした「球道即人道」の言葉。野球を学ぶ中に人としての道がある。社会人野球を7年続け、30歳の秋にコーチとして母校に戻るよう教団から請われた。進むべき道を決めるとき、中村の人生で再びこの言葉が光を放った。

中村 先生と生徒の関係のように、選手と監督の関係は一生続けばいいなと。卒業してもまた会いに来てほしいなと。コーチになってPLに戻ったとき、ああ、これを教えることが当時の2代目教主の求められたPL野球だなと思ったんです。

忘れられない風景もあった。最盛期の炭鉱町で理髪店を営み、7人の子供を育て上げた両親。中村の記憶にある父亮の姿は、昼食の茶漬けをかき込み、客でにぎわう店に大急ぎで戻る後ろ姿だった。そんな忙しい父がある日、中村を野球に誘った。「兄ちゃんの野球を見に行こう」と、6歳上の兄駿介が所属する東筑(福岡)野球部の試合を見に行った。親子は外野席のポール際に座り、試合を見て帰った。兄の帰宅後も、父はその日観戦したことなど何も言わなかった。

中村 なんかそっと見ていたおやじの背中っていうかな。それがずっとぼくの心に残っているんです。

黙々と働いて一家を支えた父。忙しい毎日でも、家族から目を離さなかった父。そういう存在がいることが、どれほど心を強くしてくれるのか。選手への愛情。見習うべき姿は、中村のすぐそばにあった。(敬称略=おわり)【堀まどか】

(2018年1月21日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)