「わや(めちゃくちゃ)でしたね」。中井哲之は、今から40年前、広陵1年時の生活をそう表現した。寮生活。朝5時に起床し、まずグラウンド整備。昼休みには再びグラウンド整備と先輩のグラブとスパイク磨き。昼食は、授業と授業の間の10分間の休み時間で急いで食堂に行き、終えなければいけなかった。授業後に練習を行い、グラウンド整備を終えても、1年生の1日は終わらない。寮では夜中まで先輩のユニホームの洗濯と夜食作り。「寝るまでマッサージしとけ」と言われる日々だった。

中井 「はい」しか言えないみたいな。もう理不尽、理不尽。僕が嫌だったことは、2年生になってやめました。理不尽な、ばかばかしいことをしても勝てないじゃないですか。

負の連鎖を、中井は断ち切ろうとした。下級生に雑用を押しつけない。「自分のことは自分でする」と決め、同学年にも呼びかけた。中井は、かつて1年生の仕事だったトイレ掃除も3年間続けている。そんな改革に乗り出した中井が甲子園に乗り込んだのは高校3年時。80年、広陵は春夏連続で甲子園出場。中井は1番遊撃手だった。同校10年ぶりのセンバツでベスト4、同8年ぶりの夏の甲子園はベスト8入りした。当時から教師を志し、卒業後は教員免許の取れる大商大に進学。そのときは、高校野球の監督になるという考えはなかったという。

中井 野球だけじゃなくて人が好きなんですよ。やんちゃな子もおとなしい子も、いろんな子を含めて人が好きだから。もしかしたらそういう職業(教師)が僕にあってるのかな、と。

大商大卒業後、教師として母校に帰り、野球部のコーチに就任。一本気な男は野球部を変えることに奮闘することになる。高校時代に撤廃したはずの理不尽な上下関係が、戻りつつあることを感じたからだ。1年で360日、寮に泊まり込んだ。レギュラーも控えも学年も関係ない。グラウンド整備は全員で行うようにし、きついと思う役割は上級生に担わせた。

大きな転機が訪れたのは、コーチ就任から4年がたった90年3月19日だった。職員会議で、ある文書が配布された。4月からの各部の監督名が記された紙で、野球部監督の欄に自らの名が書かれていた。中井は驚いた。その文書で自らの監督就任を知ったのだ。事前に打診も相談もなく、印刷ミスだと思ったほどで、27歳の春だった。

監督人生の船出は最高と言える。「若いのに出来るわけないやないか」という周囲の声は聞こえてきたが、「このやろう、見とけよ」と反骨精神で向かっていった。90年夏の広島大会は2回戦で敗退したが、秋の県予選で準優勝。中国大会で優勝し、翌91年のセンバツ切符を手中にした。同大会最年少監督の28歳で乗り込んだ聖地でも、勢いは止まらなかった。1回戦で三田学園(兵庫)との降雨引き分け再試合を制すと、春日部共栄(埼玉)、鹿児島実、市川(山梨)を破り、決勝では松商学園(長野)にサヨナラ勝ち。母校に65年ぶり2度目の春優勝をもたらした。当時の紙面によると、優勝後の中井は「いろんな方々が僕に思い切りできる環境をつくってくれて、補欠の子たちが支えてくれた」と話している。

翌年もセンバツ出場を果たし、ナイン全員で優勝旗を返しに行った。順風満帆に見えたが、そこから7年もの間、聖地が遠のく苦悩の時期が待っていた。(敬称略=つづく)【磯綾乃】

(2018年2月14日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)