全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」の第10弾は、大垣日大(岐阜)の阪口慶三監督(73)です。前任校の東邦(愛知)も含め、監督生活は今春で52年目に突入する。半世紀超も高校野球に没頭してきた名将に、全5回で迫ります。


大垣日大の副校長室のいすに座る阪口慶三監督
大垣日大の副校長室のいすに座る阪口慶三監督

50年以上も、寝ても覚めても戦い続けている。阪口は床に入っても、戦う準備を忘れない。真っ白なユニホームを着たまま眠ることがある。

翌日の試合が朝イチの第1試合なら、ほぼ例外なく前夜のうちに身支度を整える。地方大会でも、甲子園でも同じ。アンダーシャツを着てユニホームのボタンを留める。最後に、へそのあたりでベルトをギュッと締め布団に入る。帽子は枕元に置いておくが、ユニホームを着たまま寝る野球人など、阪口の他に誰がいるだろうか。

いつも戦っている。かつて、ユニホームを「戦闘服」と言った。着たまま寝る理由について多くは語らないが、周囲にはこう説明している。

「翌朝、何かあったら困る」

準備が勝負を分けると信じる。そして、やると決めたら徹底してやる。このとっぴな習慣は、就任間もない20代のころから変わらない。

妥協は許さない。練習はうそをつかないと信じて、走り続けこの春で監督生活は52年目に入る。就任からしばらくは、限度を知らなかった。東邦では野球部だけが修学旅行にも行かず練習。休みは元日だけ。その元日も自宅に選手を呼んで餅つきをし、一緒におせち料理を食べていた。事実上、年中無休だった。

就任から数年たった冬のこと。名古屋では珍しい大雪が降った。東邦の生徒たちはほとんどが、雪になじみのない名古屋っ子。真っ白になったグラウンドを見て練習休みを確信。ガッツポーズした。しかし、阪口だけは違った。

「練習やるぞ!」

この一声で、いつものように集められ、顔には出さないものの、不思議がる選手たちの目の前でいきなりガソリンを撒いて火をつけた。あっという間に火の海になったグラウンド。後ずさりする選手たちの目の前で、あれよあれよと雪が消え、真っ黒な土のグラウンドがこんにちは。いつものように練習が始まった。

監督業に必要ないと思ったものは捨てた。車の運転は24歳でやめた。就任当時は免許もあり、自分でハンドルを握っていたが、事件が起きた。後に妻となり内助の功、いまもそれを体現し続けてくれる睦子との結婚式に向け、仲人の家に行った。帰り道、式の席次に思いを巡らせ、ハンドル操作を誤り民家の玄関先に突っ込んだ。幸い、けが人はなかったが、この事故を野球の神様からの教えだと受け止めた。

「長い人生の中にはいろんな失敗もあるかもしれないけど、指導者、教育者というのは1度の失敗もあっちゃいかん。万が一のことがあるから、自動車にも乗っちゃいかんと、あの事故で、神様が命は1回だぞ、そう言ってくれたので乗らんと決めた」

以来、70歳を過ぎるまで免許の更新は続け、ずっとゴールド免許だったが、1度もハンドルを握ったことがない。不便だが、すべて高校野球のため。監督として生き抜く-。半世紀以上、この思いだけで高校野球とともに突き進んできた。(敬称略=つづく)【八反誠】


阪口監督直筆の野球ノート。2010とあるが、最新の17年度のもの
阪口監督直筆の野球ノート。2010とあるが、最新の17年度のもの

◆阪口慶三(さかぐち・けいぞう)1944年(昭19)5月4日、名古屋市生まれ。東邦(愛知)で61年春の甲子園出場。愛知大に進み、67年春に卒業と同時に母校監督に就任。以来東邦を春13度、夏11度、計24度の甲子園に導き、89年センバツで優勝。77年夏と88年春は準優勝。定年を迎えることもあり、04年夏に勇退。05年春に大垣日大(岐阜)の監督に就任した。同校にとって春夏通じ初出場だった07年春に準優勝。両校で春夏通じ、監督として昨夏までで計31度の甲子園出場は3位タイ、通算勝利数37は8位タイ。主な教え子に山倉和博(巨人)、「バンビ」こと坂本佳一氏、朝倉健太(中日)ら。

(2018年2月17日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)