監督をしている自分自身が怖くなったことがある。練習をさせ過ぎて、選手を殺してしまったのではないか。そう不安になったというのだ。それも1度や2度ではない。

まだ監督として甲子園を知らなかった無名の阪口のもとに、水谷啓昭という好左腕がやって来た。阪口東邦が69年春に迎えた3期生。期待の大きさは、そのまま練習量になり、水谷もそれに応えた。「走っておけ」と指示すれば水谷はいつまででも走り続けた。

この春、52年目を迎える記録的に長い監督生活。その中で最も頑丈で、最もたくましく、思い出に残る投手だ。4度も甲子園に行った左腕は、その後、駒大-新日鉄名古屋-中日で活躍した。

とにかく容赦ない練習を課した。グラウンドを離れて、我に返ると毎晩のように背筋が寒くなった。

「今はもう言葉にできない、考えられん練習量だった。ノックの雨、ランニングの雨、筋トレの雨。途中で倒れとりゃせんか、病院行ったんじゃないか、死んでやせんかと心配で…」

地下鉄と電車、自転車を乗り継いで帰る約1時間半の帰路を計算して待ち、午後10時過ぎに水谷宅に電話をかけ、無事を確認するのが日課になった。

電話には必ず水谷の母が出た。受話器に向かい、おそるおそる「お母さん、啓昭は帰ってますか?」と聞く。すると、こんな答えが返ってきた。

「(家の裏の)木曽川沿いに走りに行っています」

ホッとする前に、驚いた。そしてうれしくなった。水谷家への電話が日課になった。何度も、何度もかけた。水谷が電話に出たことは1度もなかった。ずっと自主練習を続けていたからだった。母もたくましく、電話のことは息子に告げず「もっと練習させて下さい」と阪口に告げた。水谷がいなければ、今の阪口はいないだろう。

さわやかな高校野球には似つかわしくない「死」。阪口自身も、意外な形でこの言葉に直面した。

水谷の卒業から、10年ほどたった30代のころ。すでに甲子園でも結果が出始め、東邦に阪口あり、これが高校野球界の常識となりつつあった。

朝から晩まで練習し、家のことは愛妻の睦子任せ。生まれ変わっても高校野球の監督をすると決めており、そのために「まずこの人と一緒にならなくちゃ」と言うほど特別な絆で結ばれた最愛の人に、家庭のすべてを委ねていた。

するとある時、小学校3年生だった長女が、作文に書いた。「うちにはお父さんがいません」と。

すぐ担任から家に電話が入った。「何がありましたか? まさか、お亡くなりになられたなんてことはありませんよね?」と。これには参った。子供たちに申し訳なくなった。

それでも、やめなかった。阪口が高校野球に、まさしく命を懸けた理由、それは同じ野球王国・愛知のライバルの存在だった。高校野球界の名門中の名門、中京(現中京大中京)に負けたくないという思い。頭の中は「打倒中京」。それこそ、死がよぎるほど水谷を鍛え上げた理由もこの1点だった。

「それくらい中京が強かった。でも、このピッチャー(水谷)なら中京を倒すことができるんじゃないかと思った」

予感は現実となる。(敬称略=つづく)【八反誠】

(2018年2月18日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)