阪口は愛知大を卒業し、そのまま母校・東邦の監督になった。まだ22歳だった。指導者経験ゼロの無名の青年監督に言い渡されたミッションは「打倒中京」、これだけだった。

今も昔も、ずっと甲子園通算最多勝利を誇る「中京」は、すでに存在そのものが全国の頂点。そう言っていいほどの実績があった。

「中京はステンレス、東邦はブリキ」と選手に告げた。負けじ魂に火をつけ、あおった。ブリキでも重ねればステンレスに勝てると続け、だから2倍、3倍の練習をするんだと説いた。

「中京」への反応は、どこまでもストレートだった。就任3年目の69年。名古屋の街では中京テレビ(日本テレビ系)の放送開始が、話題になっていた。ある時、円陣で選手たちに伝えた。

「いいか“中京”テレビは見たらイカン」

東海テレビ(フジテレビ系)やCBC(TBS系)ならOK。「中京」と名のつくものは全部敵に見えた。そこまで徹底していた。

初めて中京に勝ったのは、その3年目、69年夏の愛知大会だった。就任から2年間は、どんなに練習しても、どうやっても勝てなかった。就任初年度は準決勝で0-4、2年目の夏は2回戦で0-3。ただの1点も取れなかった。力の差をまざまざと見せつけられた阪口は、思い切った行動に出た。

戦前から中京野球を体現し続けた、中京大監督の瀧正男(故人)を訪ねた。松井秀喜らとともに1月に野球殿堂にも入ったアマ球界の偉人は心が広く、わざわざ“敵”の本丸に乗り込み、教えを請うてきた若者に、中京野球を伝授した。

まず聞いたのは、盗塁の仕方。中京はソツがなく、勝負強いことこの上なかった。走者のスタートを起こす動き、その1歩目を手始めに、そこから細部を徹底して聞いた。

「お互いバレたらえらいことになっていた。でも、もう時効。プライドも何もあったもんじゃない。どれだけ頭を下げてでも、学び取ろうと思った」

高校野球界をリードしてきた細かい野球を学んだ。同時に、進むべき方向性は間違っていないという確信も芽生えた。今も瀧を「恩師」と言う。

これがターニングポイントとなり、中京に初めて土をつけた。

三度目の正直は、愛知大会準決勝。無得点のまま迎えた0-1の9回裏、1期生で主将の横道政男の逆転サヨナラ2ラン。劇的勝利で、ついに中京を倒しての決勝進出。選手はお祭り騒ぎになった。

だが、阪口は鬼の形相で、控室に選手を集め静かに扉を閉めた。中からはそれと分かる物騒な音が漏れた。決勝を前にした、徹底的な引き締め。勝ってかぶとの緒を締めよ-。この効果もあり、決勝も豊田西に快勝し、初の甲子園に立つ。

この年から勝負の夏の愛知大会を3連覇。翌年と翌々年は、手塩にかけて育て上げた左腕・水谷啓昭の快投もあって、2度とも中京を倒して優勝し、甲子園に行った。

水谷はこの2年間、2度の対戦で中京をともに完封した。許した安打は合わせてたった1本。圧倒した。就任時、無名だった東邦の青年監督は、中京を食って、東邦に阪口ありと言われる評価を得た。(敬称略=つづく)【八反誠】

(2018年2月19日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)