阿部企業に入社した1年後に、馬淵史郎にとって母校三瓶(みかめ)高の恩師で、当時阿部企業の監督だった田内逸明が急逝した。コーチ兼マネジャーだった馬淵は過酷な日々から解放されると思った。しかし、待っていたのは、監督就任の要請だった。「お前が最年長だから。1年でも2年でもやってくれ」。チームの活動再開にあたり、田内とともに馬淵は選手集めを手伝っていた。そのため、四国出身者が多かった。

馬淵 その時の経緯もある。このまま、辞めて帰ったら、格好がつかんぞ。1年だけでも、やろうか。

1度は愛媛への帰郷を思い描いたが、神戸残留に気持ちは傾いた。監督就任。27歳の時だった。だが、現実は甘くない。当時は企業も社会人野球に力を注いでいた。潤沢な予算がある周囲のチームに対し、阿部企業は専用の練習場はなかった。

馬淵 会社の近くに空き地があってね。縦横で50メートルぐらい。バッティングなんか、できるもんか。「素振りをしたら、打てるんや。ボールが止まって見えるぞ」って。高校野球よりも厳しくやった。試合中でも鉄拳制裁や。

新米監督には、根性論しかなかった。しかし、制約だらけの環境が創意工夫を生む。社屋の2階にある会議室を室内練習場代わりに使ったこともあった。ティー打撃用のネットを3個用意。近所に迷惑がかかると、窓を閉め切って、音が出にくいソフトボールを打った。冬場は体作りにラグビーを取り入れた。タックルを食らって、頭を打つ選手もいた。スパルタ方式だったが、選手は馬淵についてきた。親分肌で面倒見のいい気質は当時からあった。阿部企業で同僚だった宮岡清治は言う。「お前ら、持って行けよと、弁当を作ってくれた」。馬淵は米を炊き、みそ汁を作った。ランチジャーに詰め込み、おかずは生卵だけ。夜勤前の選手に手渡した。「誰も作るやつがおらんかったから」と照れくさそうに笑う。

野球部のメンバーで集まれば、「いつ四国に帰ろうか」と愚痴をこぼしたが、次第にチームは力をつけていく。もともとは大学時代に補欠だったり、社会人の有力チームに入れなかった選手の集まり。野球に飢えていた。宮岡は「何か知らんけど、強くなった」と不思議がる。そして、こう続けた。「意地だった。阿部企業に行ったけど、何もできないと言われるのに腹が立った。何か残さないと、と思った」。劣等感が原動力になった。

さらに台湾から右腕の陽介仁、外野手の林易増を獲得し、投打で戦力は向上。チームは勢いに乗った。その前年まで、兵庫予選はわずか1勝しただけ。そんな雑草軍団が監督就任4年目の86年に、都市対抗に初出場する。初戦の相手は優勝候補の三菱自動車川崎。ここでアッと驚く番狂わせをやってのける。後に「松井の5敬遠」で世間を騒がせた馬淵の策士ぶりは、この時から芽を出していた。(敬称略=つづく)【田口真一郎】

(2018年2月23日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)