見ている方まで息が切れ、胸が苦しくなるような練習がこの日も始まった。前田100万石の城下町・金沢が若葉に包まれる5月。小坂町南の星稜(石川)グラウンドでは、壮絶な個人ノックが繰り広げられていた。

監督の山下智茂対3年生エースの堅田外司昭。正確さとスピードを兼ね備えたノックを、山下は堅田1人に打ち続けた。

堅田 春の県大会で準決勝で負けたんですけど、そこから1カ月間くらいね。もう毎日学校に行くのもいやだというくらい、毎日個人ノックをやられました。

やり通したなら体力がつくのか? 下半身は強くなるのか? 胸の中で叫びながら地面に転がり、土をかみながら約1時間、堅田はボールを追い続けた。

堅田 監督をやっつけようかと思うくらい、それくらいやられました。

だが、猛練習は、突然終わった。山下は堅田に近寄らなくなった。ブルペンにも来ない。ホッとした堅田も、次第に複雑な思いになった。それも、山下ならではのエース育成だった。

山下 小松辰雄(元中日)がエースで甲子園に行ったとき、1年生で堅田だけベンチに入れたんです。この子でなんとか勝負したいってことで。堅田に「お前しか投手いないから、朝、家から走って来い」と。それで朝も帰りも走って行き来して、すごく良くなったんです。

2年秋の練習試合で、堅田は13四球を出しながら無安打無得点試合を達成した。13四球でもノーヒッター。鼻高々になったエースは、山下の鉄拳のえじきになった。下級生のころから認めた堅田だからこそ、叱るときも鍛えるときも容赦はなかった。堅田も気付いたことがあった。

堅田 小松さんがそうやったんです。小松さんは監督ご自身がいろんなことを言われなくても大丈夫という人でしたから、もともとあまり声をかけられなかったですけど。監督からすれば、心中じゃないけど、こいつと勝負するんや、勝っても負けても。そういう域まで仕上げてくださったのかなと。

その思いこそが、79年夏の甲子園で、箕島(和歌山)との延長18回の激闘を投げきった堅田の支えだった。1カ月に及ぶ猛ノックで、山下はエースの気概を堅田に伝えていた。箕島戦の試合中も、2人は話さなかった。

だが、延長18回裏1死一、二塁のピンチで、山下はマウンドに伝令を送った。「お前に任せる。思いきり悔いのないように投げなさい」。そう山下が書いたメモを手に、伝令の竹多昭二は堅田のもとに走った。

山下 声に出しても伝わらない。これを堅田に読ませろ、と託したんです。

だが、そのメモを、堅田は読まなかった。18回の星稜攻撃中に聞こえた「再試合は明朝8時半から行います」のアナウンスが、堅田の最後の力を奪った。その時間なら、起床は4時半。体力が回復するはずもない。絶望感で肩が落ちた。

堅田 ちょっと僕だけ、ちょっとだけ悔い残ってます。「もういいよ」ってメモを見なかった。見られる状態じゃなかった。早く投げたい、早く引き分けで終わりたいという気持ちで。見ていたらどう感じていたのかなと。(最後の力が)出たかもしれない。

タイムが解けた直後、箕島・上野敬三の打球は遊撃手の頭上を越え、左中間に飛んだ。試合は終わった。もしもあのとき、堅田がメモを見ていたら、球史は変わったのだろうか。(敬称略=つづく)【堀まどか】

(2018年2月28日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)