大阪桐蔭野球部長の有友茂史が、苦笑とともに明かす西谷浩一の逸話がある。秋の国体で西谷と同室になった。真夜中、誰かの話し声で目が覚めた。隣のベッドで眠る西谷が、しゃべっていた。

「○○監督の胸をお借りし、チーム全員で一丸となってなんとか勝たせていただくことができました!」

なんと、夢の中で西谷は勝利インタビューに応じていた。おちおち寝てもいられないほどの明瞭な声で。安眠を邪魔されながらも「四六時中、野球のことを考えているのだと思います」と長年のパートナーは理解を示した。大阪桐蔭を選んでよかったという思いとともに、教え子を卒業させたい指導理念が、西谷の日常の根底にある。

西谷 部員1人1人といかに時間を取るかが大事。指導者も4人いるわけですから、毎日何がしか話もできるし、教えることもできるんで。1人1人に手をかける。1人1人にかまう。関わる時間を多くしたい。どこの学校よりも。

部長の有友、コーチの石田寿也、橋本翔太郎との4人体制で部員と向き合う。西谷自身は独身時代、野球部寮で寝起き。03年から05年は投手の辻内崇伸(元巨人、現埼玉アストライア監督)につきっきりだった。

グラウンドから引き揚げた後、辻内は西谷の部屋に呼ばれ、こたつで腹筋と背筋をした。風呂まで一緒の生活に、辻内は「先生が早く結婚して寮を出られないかと、そればかり願っていました」と、悲鳴を上げた。だが、猛練習の裏には、気性の優しい辻内に絶対的な自信をつけさせたい思いがあった。

西谷 それには人よりしんどい練習をやりきったと思わせるのがいいと思ったんです。

辻内の性格を理解し、力を伸ばせる最上の方法を西谷は選んだ。最上級生になった05年夏の甲子園大会1回戦・春日部共栄(埼玉)戦で、辻内は国内の左腕最速156キロをたたき出した。2回戦・藤代(茨城)戦で、当時の大会最多タイ記録となる19奪三振。準決勝で田中将大(当時2年=現ヤンキース)を擁した駒大苫小牧(北海道)の前に力尽きたが、優勝した91年夏以来14年ぶりの4強で、大阪桐蔭が不動の全国区になる礎を築いた。

厳しい練習を乗り越えた部員には、好結果に導くことで報いてやりたかった。今も夢に見る試合がある。中村剛也(西武)西岡剛(阪神)らがいた01年夏の大阪大会決勝・上宮太子戦。エース岩田稔(阪神)が投げられず、野手も投手として動員した非常事態で、初回に5点を失った。9回裏に追いつき、延長戦に持ち込んだ。それでも最後は5-6で尽きた。

西谷 猛練習に次ぐ猛練習。朝も晩も練習させて、それで最後勝たせてやれないのかと生徒たちに申し訳なかった。もっとちゃんとした監督やったら勝てていたと、自分で思いました。監督として力をつけないと。勝たせてやれない監督じゃダメだと思いました。

監督に就任してまだ3年目の夏。上宮(大阪)監督時代に元木大介(元巨人)らを育てた老練な敵将、山上烈とのキャリアの差を痛感させられた。

育成と結果での成功体験。求める理想をはっきり示された一戦だった。(敬称略=つづく)【堀まどか】

(2018年3月7日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)