全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第14弾は、群馬の高崎健康福祉大高崎を率いる青柳博文監督(45)です。元々は女子校だった同校の野球部の創部1年目に監督に就任。機動力を駆使した「機動破壊」で、“健大高崎”を全国区に押し上げた青柳監督の物語を全5回でお送りします。


17年3月、センバツ1回戦であいさつする高崎健康福祉大高崎ナイン。右端は青柳監督
17年3月、センバツ1回戦であいさつする高崎健康福祉大高崎ナイン。右端は青柳監督

監督に就任して、間もない頃だった。青柳は1人、真っ暗な部屋の中で涙を流した。「これから、どう指導すればいいのか…」。考える度に涙があふれた。

青柳 先が見えなくて、不安ばかりでした。高校野球の監督の大変さや孤独さを感じてしまって…。毎日、悩んでいました。

大学卒業後、青柳は7年間の会社員生活を経て、02年に高崎健康福祉大高崎の監督に就任した。だが、理想と現実の差は想像をはるかに超えるものだった。「甲子園に行く」と意気込んだ威勢の良さは、最初の1カ月で消えた。

当時、専用グラウンドはなく、主な練習場所はテニスコートだった。部室もなく、練習着はジャージー。青柳も部員も外でそそくさと着替えた。週1回は球場を借りたが、普段はティー打撃やキャッチボールするのが精いっぱいだった。

青柳 どんな環境でも、野球ができれば幸せなんです。でも、野球までたどりつくのが大変なんです。

就任当時、青柳が「丸刈り」や「学校生活の重要性」を指導した途端、部員は15人から11人に減った。部員の校則違反や授業態度の悪さを知ると、周囲に謝罪した。「本音は生徒を守りたいんだけど、規則を破れば守れない…。その葛藤が苦しかった」。

就任から3カ月が過ぎた頃、事件は起きた。夏の群馬大会の組み合わせ抽選後に部員の喫煙が発覚。当該部員は謹慎処分を下された。4月以降に1年生も入部し、当初は選手17人を登録したが、最終的には13人で大会に出場。前橋東に0-12で完敗した。

01年に男女共学に変わったが、野球部の知名度は低かった。青柳自らが広報し、中学校やクラブチームへあいさつ回り。将来のビジョンを示すなど、営業のノウハウを駆使しながら、部員集めに奔走した。

青柳 最初は全然でした。でも、営業も同じで、なかなか買ってもらえないですから。打たれ強さは身に付けていたんで。

徐々に部員が増え始める一方で、悩みも増えた。青柳は生活指導には特に厳しかったが、部員の反発もすごかった。2年目には21人の全部員のうち、主将を含む3人の選手を除き、練習をボイコット。仮病やウソをつき、練習を休むのは日常茶飯事だった。

青柳 1歩進んだら、2歩後退する。それの繰り返し。野球の指導と同じように生徒を教育することも大事。それが、高校野球の難しいところなんです。


高崎健康福祉大高崎の青柳監督(左から3人目)とコーチ陣、チームスタッフ
高崎健康福祉大高崎の青柳監督(左から3人目)とコーチ陣、チームスタッフ

1人では限界だった。参考にしたのは、東北福祉大の恩師で監督の伊藤義博だった。伊藤は外部コーチを招集し、不足する部分を補った。「機動破壊」が代名詞となる“健大野球”へとベクトルが向き始めた。

スタッフ陣を形成する上で、7年間のサラリーマン生活が役立った。「いい会社は部下がしっかりしている」の考えを礎に、各担当スタッフに練習メニューや指導法を一任。意見交換は密にするが、基本的にはコーチの考えを尊重した。

青柳 1人のカリスマ監督だけの時代は、終わったのかなと。各担当が持ち味を生かし、部門ごとに強化する。会社と同じです。

今では“GM”の青柳をトップに、計12人のスタッフがチームに携わる。スタッフ陣は「ブレーン」と称され、野球の技術はもちろん、トレーニング、戦略などにも及ぶ。

◆コーチ(5人)

(1)生方啓介 Aチーム補佐(打撃、守備)

(2)葛原毅 Aチーム補佐(走塁、投手)

(3)沼田雄輝 Bチーム監督

(4)岡部雄一 マネジャー

(5)葛原美峰 戦略

◆外部コーチ(3人)

(6)池田善吾 アドバイザー

(7)木村亨 バッテリー

(8)田島成久 アドバイザー

◆トレーナー(3人)

(9)塚原謙太郎 フィジカル

(10)竹部董 ダンス

(11)西亮介 メディカル

05年から部長の生方啓介(36)は青柳を「経営者」と称し、コーチの葛原毅(35)は「マネジメントのプロ」と例えた。生方は「変なプライドがなく、ないものは他から取り入れる柔軟性のある監督。コーチも任される分、必死に研究するし、コーチ同士も刺激し合えます」と話した。

10年夏、チームは変革期を迎えた。準決勝で前橋工に敗戦。三ツ間卓也(現中日)ら140キロ超えの投手が3人、高校通算50発を超える打者がいながら、甲子園に届かなかった。「考えが浅かった」。青柳は当時、Bチームの担当で走塁を重要視していた葛原に要望した。「Aチームに走塁を指導してくれ」。“機動破壊”の誕生だった。(敬称略=つづく)【久保賢吾】

◆青柳博文(あおやぎ・ひろふみ)1972年(昭47)6月1日、群馬県吾妻郡東吾妻町出身。前橋商では3年春のセンバツに「4番一塁」で出場し、初戦で新田(愛媛)に敗れた。東北福祉大に進み、3学年上の阪神金本監督、同期で元中日の和田一浩らとプレーした。計7年間の会社員生活を経て、02年4月に高崎健康福祉大高崎の監督に就任。11年夏に甲子園に初出場した。12年春のセンバツでは4強入り。甲子園には春夏で計6回出場し、通算13勝。188センチ、100キロ。担当教科は社会科。

(2018年3月9日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)