全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」の第15弾は、池田(徳島)を率いた蔦文也さんです。01年に77歳で亡くなった蔦さんは「攻めダルマ」の異名をとりました。豪快な打撃のチームで82年夏と83年春を連覇するなど、甲子園の優勝3回。実は蔦さんの野球への取り組みは繊細さがあふれていたことを織り込み、山あいの町の県立高校野球部が全国区で戦った物語を全5回でお送りします。

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東京・赤坂御苑に蔦はいた。83年5月に催された春の園遊会へ招かれていた。サザエさんの作者・長谷川町子、スピードスケートの黒岩彰らが一緒だった。

昭和天皇が蔦に「野球で頑張っているんだね」と、声をおかけになったという。

山あいの町、徳島・池田町にある県立池田高の硬式野球部が、甲子園で82年夏と翌83年春に連続優勝した。四国のへそと呼ばれる池田からやってきて、都会の強豪や各地の名門を次々に破った。

池田の監督を務める蔦は、陛下に「はい、みんなが力を合わせた結果です」と答えた。

夏春甲子園連覇時の池田は「山びこ打線」と呼ばれた破壊力ある攻撃が特徴だった。夏に畠山準、春は水野雄仁という剛腕投手を擁していたことも大きいが、チームの打撃は当時の高校レベルで群を抜いており、腰の据わった打法で長打を連発。高校野球ファンの目が点になった。

蔦は「攻めダルマ」の異名をとった。ベンチにどっかりと腰を下ろし「いけえー」「打てえー」と指示する。その風貌と合わせて、新聞記者が命名したといわれている。

特に劇的だったのは82年夏の準々決勝で、早実(東東京)の5季連続出場エース荒木大輔をKOしてなおも打ちまくり、20安打で14点を挙げたこと。「続けえー、ちゅうようなことでいきよったからね、あの試合は。ああいうのが一番よろしい」と後年も満足顔だった。

蔦は「勝負には2つの型がある。1つは攻撃を主で守りを従。もう1つは守りを主にして攻撃を従。私は、攻撃は最大の防御なりと思うとる。勝負は強気の攻めの方が勝率は高い。そう信じてやっとる」と打撃の強化を推し進めた。74年の金属バット導入以降は、打球音が大きい金属バットを好み、池田グラウンドに快音が響くのを楽しむように見ていた。

新入生にも打撃マシンを快速球にセットして打たせ、長打力があるかチェックした。「ようけ飛ばせるもんの方が、見ておっても気持ちがええだろ。当ててヒットにしたろっちゅうのは好かんわ、ワシゃ」。

園遊会では、冒頭の受け答えに続く笑い話があったのだという。昭和天皇崩御の89年1月7日に、蔦は「実は…」と明かしている。「陛下が『骨が折れるんだろうね』とおっしゃって、私は『はい』とお答えしてから『よろしくお願いします』と言うてしもた。あとで人に言われて赤うなったが、天皇陛下によろしくお願いしますと言うた人間は初めてじゃったらしい」。天皇陛下の前では珍しく自分を見失っていたのか。

激動の昭和を生きた。大戦では特攻隊要員。敗戦後しばらくして池田の教員で野球部監督となるが、甲子園へ行けなかった期間が20年。その分、雌伏の時期に蓄えたものがある。見失うことのない蔦の戦術がある。「攻めダルマ」は仮面でもあった。バットを振りまくるだけで勝ち上がれるほど高校野球はたやすくないことを、蔦自身よく分かっている。「攻めダルマ」と呼ばれることは、蔦の野球の本質を相手に悟られないためには、うってつけだった。(敬称略=つづく)【宇佐見英治】

◆蔦文也(つた・ふみや)1923年(大12)8月28日、徳島県徳島市生まれ。徳島商で3度甲子園出場し、40年の春夏はエース。同志社大在籍中に学徒動員に伴い海軍へ。戦後同大を卒業。社会人野球を経て、50年にプロ野球の東急フライヤーズ(現日本ハム)に投手で入団したが1年で退団。51年に池田高の社会科教諭となり、翌年野球部監督就任。監督としての甲子園出場は春7回(優勝2回)、夏7回(同1回)で通算37勝は歴代8位タイ(17年夏終了時点)。01年4月28日、がんのため77歳で死去。

(2018年3月14日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)