元ヤクルトの宇佐美康広さん(42)は、グラブを売るばかりが仕事だと思っていない。2016年12月14日、埼玉県戸田市にある「ロクハチ野球工房」をオープンさせた。元プロ野球選手の野球用品店とあり、グラブ選びの相談は多い。
- ロクハチ野球工房の前に立つ元ヤクルトの宇佐美康広さん
宇佐美さん(以下、敬称略) お客さんが買うのを止めることもありますよ。「まだ、このグラブは使えるよ」「もうちょっと考えた方がいい」とね。新品を買ってもらえると思ってきた子供は涙目になっちゃいますね。でも「このグラブ、一晩預かるよ。明日取りにおいで」と言って帰します。
使い古されたグラブの汚れを取り、油を塗り、ひもを締め直して、少年の再訪を待つ。
宇佐美 ピッカピカにして「ほら、まだ使えるだろう」と返してあげる。「これが使えなくなったら、もう1回おいで」ってね。
高校入学を控えた球児が、キャッチャーミットを買いにきた。高校でも、中学時代の定位置で勝負する。その意気込みを評しつつ、ひと言加える。
宇佐美 「入学直後にコンバートもあるんじゃないの。まず中学時代のミットでいきなよ。本当に必要になったらおいで」と言います。売り上げだけを考えたら、コンバートでもう1個買ってもらった方がいいんですけどね。
そう言って、声を上げて笑った。
宇佐美 でも、元プロ野球選手として、いいかげんなことは言えない。元プロに言われるから聞いてくれることもあるでしょう。だから、いい情報を発信しなければと思っている。本当に必要な時に買ってくれればいいんですよ。
一瞬の間を空けて言葉を続けた。
宇佐美 その子が大きくなって親や指導者になったとき、思い出してくれたらいいな。「小さい時、あそこのスポーツ店のおっちゃんに言われたなあ」って。で、道具を大切にすることを伝えてくれたらいい。
時折、グラブをはめてポンポンとたたく。言葉の節々から野球への愛情がにじみ出ていた。
だが、引退直後は違っていた。「野球はもういい」と思っていた。試合も見ず、関心も示さなかった。
宇佐美 むしろ野球とは離れたいと思っていました。意識的に遠ざけていましたね。
球界を去ってから店をオープンするまで、16年の月日が流れていた。
- グラブの手入れをする宇佐美康広さん
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宇佐美さんは北海道・枝幸(えさし)郡歌登町(現・枝幸町)の出身で、歌登中から稚内大谷高に進んだ。
中学3年で162センチと小柄ながら、俊足巧打、そして強肩を武器に台頭した。高校3年時には「1番捕手」として、北北海道大会の決勝まで進んだ。決勝は旭川大高に延長の末にサヨナラ負けを敗れた。
インターネットの情報によれば「高校時代は1度も盗塁を許していない」とある。
宇佐美 ウィキペディアとかに書いてありますね。1度もってことはないですよ。最後の決勝でサヨナラされる場面でも、ノーアウト一、三塁で一塁走者が走ったけど投げなかった。記録上は盗塁がついているでしょう。
サヨナラの走者が三塁にいれば当然投げない。
宇佐美 それ以外は走られていないかな。肩に自信はありました。簡単には走らせなかったとは思います。逆に走って来いと思っていました。
卒業後は社会人野球に進もうと考え、後輩の札幌遠征に同行して数々のチームを回った。熱心に誘ってもらった王子製紙苫小牧に内定をもらった。
宇佐美 社会人で野球を続けて、チャンスがあればプロとは考えていました。ただ、高校からプロとは考えていなかった。0%です。
実はヤクルトと近鉄から調査書は届いていた。監督の下には指名を示唆する連絡もきていたという。
宇佐美 監督の親心なんでしょうね。下位は当日の状況で変わるでしょう。だから実際に指名があるまで期待させないようにしてくれたようです。
ドラフトの当日、監督から「指名はないだろうから下宿に帰っていい」と言われた。ただ、「連絡はつくようにしていなさい」と付け加えられた。
宇佐美 そしたら電話が来て「ヤクルトに6位で指名された」と。学校まで歩いて10分の道のりで「どうしよう」と思って、着いたら記者の方が10数名いた。座らされて気持ちを聞かれました。内定を頂いていた王子製紙さんに迷惑かけちゃうと、そればかりが気になっていました。本心はすごいうれしかったんだけど、ニヤニヤしたらまずいなと思ってね。「監督、両親と話し合います」と無難な答えをした覚えがあります。
ただ、気持ちはすぐにプロで固まったという。
宇佐美 ボクは中学から高校に入るときも、レギュラーを取れる自信はなかった。体も小さかったし、大した選手ではなかったから、稚内大谷に入るのはすごいチャレンジだった。でも、力をつけてポジションを取って注目されるようにもなった。これで「チャレンジするって大事だな」と思っていたんです。社会人も大きなチャレンジだけど、もっと上のレベルにチャレンジできるならと思いました。
日本最北端に位置する稚内の高校生としては、初めてのプロ入りだった。話題にもなった。
宇佐美 多分オレがドラフトで入る選手で一番下手だろうなと思っていた。プロで成功するイメージはできなかった。でも、チャレンジしたかったんです。このチャンスは逃せないとね。3、4年でクビになるかもしれないけど、それでも22、23歳でしょう。やるだけやってダメなら出直そうと思っていました。
チャレンジ精神を胸にプロの世界に飛び込んだ。
- 1993年12月13日、ヤクルト新人入団会見で野村監督(左)と握手を交わす宇佐美康広
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最初のキャンプで投手の球に驚いた。
宇佐美 北北海道では130キロが出る投手なら速球派と呼ばれる。135キロなら超速球派。それが140キロを超す球がゾロゾロいるわけでしょう。プロの投手の球って質がまったく違う。オレ、いつか捕り損ねて、顔にボールが当たって死ぬなと思っていた。毎日ブルペンが憂鬱(ゆううつ)でした。
捕球するだけで精いっぱいだった。
宇佐美 ボクが捕球しているというより、ピッチャーがミットに入れてくれている。そんな感じでした。
高速スライダーで名高い伊藤智仁投手の決め球は捕れなかった。
宇佐美 2球連続で直接ヒザに当たりました(笑い)。見たことがないボール。これが一流の球なんだなと思いましたよ。石井一久さん、同期入団の山部太さん…うなるようなボールを投げていました。
さらに当時のヤクルトには、球界を代表する古田敦也捕手がいた。
宇佐美 いやいや、よく聞かれますけど、古田さんと争ってなんて考えたこともない。恐れ多いでしょう。目標はファームで試合に出ること。でもね、やっていく中でちょっとキャッチャーでやっていくのは厳しいんじゃないかなと思うようになりました。
彼には足という武器があった入団時から、野手へのコンバートは視野に入っていた。2年目は捕手と内野手を兼任した。3年目からは完全に内野手に転向し、スイッチヒッターにも挑戦することになった。
宇佐美 担当スカウトの方に「足と肩があるから、飯田(哲也)のようにコンバートもある」と言われていました。
4年目からはイースタン・リーグで出場機会が増え、5年目の1998年にはファーム日本一にも貢献した。翌99年には1軍で15試合に出場し、19打数で2安打も放った。
しかし、翌00年はファーム暮らしが続いた。シーズン途中からは2軍でも出番が少なくなった。
宇佐美 覚悟はしていましたね。ヤクルトのユニホームを着るのも、もう今年が最後だなと。
イースタン・リーグの最終戦を迎えた。
宇佐美 最終戦でスタメンならクビだなと思っていたら「1番セカンド」でした。予想通りでした。
戦力外通告を受けた際、球団から野球を続ける意思を問われた。
宇佐美 野球をやる気はありませんでした。むしろ野球に携わりたくなかった。いつまでも野球にしがみつくのではなく、自分が野球以外でもできることを確かめたかったんです。
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球界を離れ、知人が社長を務める広告代理店に入社した。
宇佐美 もともとお付き合いのあった社長さんに誘ってもらいました。経営企画という部署でしたが、社長付の運転手のような役目でした。
だが、約1年後にその社長が退任することになった。
宇佐美 誘ってくれた社長さんがいなくなって、私が残る意味もなくなった。そこを辞めてから半年ぐらいはプラプラしていました。
定職に就かず、毎日のように飲み歩く日々だった。
当時の生活を支えた資金は、フジテレビ系列「クイズ ミリオネア」で稼いだ賞金だった。(つづく)【飯島智則】
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