「ジョー」はミニバイクで甲子園を目指した-。阪神・淡路大震災から17日で24年。編集委員・高原寿夫が送る木曜日のオフ企画「こんなん知ってますか!?」。今回は震災直後の道をミニバイクでひた走った真弓明信(日刊スポーツ評論家)の苦い思いを振り返ります。

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あれから24年がたった。地震には縁遠いと思っていた関西の人々を襲った阪神・淡路大震災。被災のレベルに差はあれ、当時を知る人なら誰もが忘れられない出来事だ。それぞれに思いがある中、野球人として、特別な思いを持つのが「ジョー」の愛称で人気を誇り、のちに阪神監督も務めた真弓明信だ。

「地震のせいにしてはダメなんだけどね。でもあれがなければ、もう少し現役をやれたんじゃないか。俺は今でもそう思っているんだ」

95年オフ、球団から翌年の契約をしないと通告された。42歳だったが「まだやれる」との思いがあり、引退は決めなかった。しかし他球団からのオファーはなくバットを置いている。結局、95年が現役最後のシーズンになった。後悔が残るのは震災の影響で、野球に集中できなかった思いがあるからだ。

神戸市西区の自宅で被災した。作り付けの家具が多かったため、揺れの大きさに比べ、タンスが倒れるような被害がなかったものの食器、洋酒の瓶はことごとく割れた。

そんな真弓が震災直後に購入したのは「原付(ミニバイク)」だ。キャンプを控え、甲子園、鳴尾浜に出向く必要があったが交通手段がない。高速道路は倒壊、国道も自家用車の通行は困難だった。

「困ったな、と思って。でも自宅の近くに中古のバイク屋さんがあって。これしかないなと思って買った。それも店頭からはあっという間になくなっていたけどね」

身軽なミニバイクは当時、重要な乗り物だった。それでも阪神のスター選手、それもベテランの真弓が50CCのバイクにまたがる姿は考えられなかった。だが見た目のことは言っていられない。真弓はバイクで甲子園球場を目指した。それでも連日は厳しかった。最終的には若手の合宿所に泊まり込むことにもなった。

「他の選手たちはもう少し甲子園の近くに住んでいたからよかったんだけど。俺の自宅の辺りには誰もいなかったからね。野球以前に、その準備で大変だったよ」

シーズンが始まったが、阪神の調子は上がらない。監督6年目の中村勝広は前半戦が終わったタイミングで休養。2軍監督だった藤田平が後半戦の指揮を執った。しかし効果はなく、終わってみれば最下位に沈んだ。

神戸を本拠地にしていたオリックス・ブルーウェーブは「がんばろう神戸」の合言葉の下、優勝をもぎとった。阪神は対照的な結果に終わった。「だから言い訳はできないんだけどね。でもね…」。真弓の思いは今も残っている。(敬称略)


◆真弓明信(まゆみ・あきのぶ)1953年(昭28)7月12日生まれ、福岡県出身。柳川商-電電九州を経て72年ドラフト3位で太平洋(現西武)入団。78年オフにトレードで阪神に移籍。走攻守の3拍子そろった内野手として、中心選手となる。83年首位打者。85年は外野にコンバートされ、主に1番打者として、34本塁打、84打点、打率3割2分2厘で日本一に貢献。通算初回先頭打者本塁打41本は球界2位、うちセでの38本塁打はリーグ最多。後年は代打に転じ、94年のシーズン代打30打点はセ・リーグ記録。通算成績は2051試合、1888安打、886打点、打率2割8分5厘。現役時代は174センチ、75キロ。右投げ右打ち。09~11年阪神監督。


◆阪神・淡路大震災とタイガース チームにも深刻な影響が出た。甲子園のアルプス席通路には亀裂が走り、階段が10センチほど浮き上がった。嶋尾康史投手は自宅の窓ガラスが左肩に突き刺さり、傷口15センチの負傷。高知・安芸市での春季キャンプ延期の恐れもあったが、2月1日にどうにか開始できた。同9日には選手会が義援金活動を開始し、ファンが続々と募金した。オープン戦前半は、近鉄の本拠地だった藤井寺や日生で開催。3月15日にようやく甲子園でオープン戦を行った。なお公式戦では低迷を続け、球団ワースト3位の勝率3割5分4厘で最下位に終わった。