あれは金本知憲が監督の時だった。甲子園球場の近くの料理屋に、OB4人が集まった。音頭を取ったのはOB会長の川藤幸三。出席したのは中村勝広(故人)と掛布雅之、そして岡田彰布だった。

阪神岡田彰布監督(2022年11月2日撮影)
阪神岡田彰布監督(2022年11月2日撮影)

宴席の趣旨は阪神を側面から支えよう…というものだったが、話は弾み、宴会が終わったあと、もう一軒ということになり、大阪北新地に繰り出した。昔話に花が咲き、阪神の現状についても語り合い、日付が変わるまで盛り上がった。

数日後、掛布に会う機会があり、あの集会のことを聞くと「オカ(岡田)も穏やかになったよね」と笑っていた。掛布が岡田のことを評するのは珍しいことだった。それほど2人の関係は微妙で、デリケートなものだった。

年齢は掛布が2歳上。入団当時、岡田は「掛布さん」から距離を詰め「カケさん」と呼ぶようになっていた。そういえば岡田が阪神に入団が決まった時、日刊スポーツで2人の対談を企画。「2人で100発!」と盛り上がったけど、極秘で進めた企画だったため、球団から、しばらくの間、日刊スポーツは「出禁」を食らった。それほど注目度の高かった2人。それがいつの間にか、ボタンの掛け違いが起きていた。

「掛布派」「岡田派」とチーム内は二分されていく。岡田が力をつけるにしたがって、色分けが鮮明になっていく。打撃投手の取り合いとか、慕う選手の区分が明確になり、派閥争いと表現されるまで、エスカレートしていった。

だが本人たちは、これを否定する。いわゆるマスコミにおもしろおかしく作り上げられたもの…という認識でいた。ただ2人で接することがなくなったことも事実。プライベートで飲みにいったりすることがなくなり、普段の会話も儀礼的なもの以外、なくなってしまった。

かつての「村山派」「吉田派」のような勢力争いととらえられたが、こういう2大勢力のチームの構図は掛布と岡田以降、存在することはなくなった。同じ内野手。掛布はテスト生同然で入団し、苦労を重ねてスターダムにのし上がった雑草派。一方の岡田はドラフト1位入団の超エリートで、対照的なストーリーを描いていた。

ただし交わらなくても、2人は認め合っていた。岡田は入団する際、三塁に固執したけど、掛布のバッティングを目の当たりにして、あきらめた。「あのスイングスピードは本当にすごかった」と振り返り、掛布もまた1985年の日本一を思い起こし「オレは4番だったけど、オカが5番を打つことで、何度も救われた」と述懐している。

85年4月17日、巨人戦の7回、バースに続き本塁打を放つ掛布
85年4月17日、巨人戦の7回、バースに続き本塁打を放つ掛布
85年4月17日、巨人戦の7回、バース、掛布に続きバックスクリーンへ本塁打を放つ岡田
85年4月17日、巨人戦の7回、バース、掛布に続きバックスクリーンへ本塁打を放つ岡田

掛布は1度も1軍監督にはならず、岡田は今回、2度目の監督に…。ついに2人は交わることはなかったけど、現役時代のプレースタイルを目に焼き付けている。そこで本題に…。岡田は今キャンプで佐藤輝の守備力アップに徹底的に取り組ませることを明かしている。三塁固定を明言し、それも守備固めなしのフル出場。これが目指すべきところとした。

これこそが掛布雅之を意識したもといえる。掛布は大きなケガ以外、途中でベンチに下がるということはなかった。試合に出続けてこそ、チームの軸、そして阪神の三塁手という岡田なりの定義がある。掛布を見てきたからこそ、それを佐藤輝に求める。

そして同じことを大山にも要求する。佐藤輝と大山、どちらが4番を打つかはまだ決まっていないが、かつての掛布、岡田のような存在になってくれ。岡田の言葉の端々から、そんなメッセージが読み取れる。

「大山派」「佐藤輝派」は存在しないし、まだまだそんな選手ではない。しかし2人が目指す「アレ」の骨格になるのは間違いない。大山は右打者、佐藤輝は左打者。これもいい。掛布と岡田を思い出させてくれる。ヒリヒリするような2人の関係になれば…。今シーズン、それを楽しみにしたい。(敬称略)【内匠宏幸】

阪神大山悠輔(2022年6月17日)
阪神大山悠輔(2022年6月17日)
阪神佐藤輝明(2022年4月5日)
阪神佐藤輝明(2022年4月5日)