甲子園出場だけが高校野球の目的ではない。その過程に意味があれば、「その先」にも意義がある。おかやま山陽の堤尚彦監督(46)は、甲子園出場のその先に「野球の普及」という目的を掲げる。

 経歴は異色だ。現役時代は都立千歳(現芦花)から東北福祉大に。1年生の時の4年生は、現阪神金本知憲監督(49)。トップレベルの選手を目の当たりにした、3年生の時だった。何げなく深夜にテレビのニュースを見ていると、日本人がジンバブエで野球指導を行っている映像が流れた。教わっている子どもの楽しそうな姿。それを木によじ登って見ている人々。最後にある言葉がテレビに流れた。「お金、道具、グラウンドが無いのが問題なんじゃない。自分の次に(野球指導を)やる人がいないのが問題だ」。その言葉を見て、全身に稲妻が走ったようだった。「自分が行きます」。すぐに放送していたテレビ局へ電話していた。

青年海外協力隊員時代のおかやま山陽・堤尚彦監督(前列左から2番目)とジンバブエの人々(本人提供)
青年海外協力隊員時代のおかやま山陽・堤尚彦監督(前列左から2番目)とジンバブエの人々(本人提供)

 テレビ局に電話すると、それが「青年海外協力隊」だと教えてくれた。その秋の募集で合格し、すぐに派遣されることが決まった。派遣先が書かれた封筒を開けると「ジンバブエ」の文字。運命だと感じた。ジンバブエには十分に野球道具は無かった。現地の調理道具を削ってバットを作り、木の実をボールにした。グラブは日本製のグラブをばらして8枚の型紙を作り、靴屋に頼んで作ってもらった。ラインを引く白線代わりに水を使ったが、もちろんすぐに乾いて見えなくなった。地道な指導と普及を重ねていくうちに、現地の学校の指導要領に「ベースボール」が組み込まれるまでになった。道具不足などの環境、現地の子どもたちの姿を目の当たりにし「世界中に野球を普及したい」という考えが大きくなった。

おかやま山陽・堤尚彦監督が、青年海外協力隊員時代にジンバブエで作った野球道具(本人提供)
おかやま山陽・堤尚彦監督が、青年海外協力隊員時代にジンバブエで作った野球道具(本人提供)

 帰国した後も、シドニー五輪を目指すガーナや、アテネ五輪を目指すインドネシアで指導を行った。タイでアジア野球連盟のインストラクターとして、初心者向けの野球指導を行っている時に出会ったのが、師と仰ぐ元慶大監督の前田祐吉氏(享年86)だった。当時、不祥事が続いていた高校野球。「日本の高校野球は駄目ですねえ」と言う堤監督に前田氏は言った。「みんなが来たくなるような強いチームを作ってから言え!」。そんな時、野球部内で問題が起き監督が辞任したおかやま山陽が、新しい監督を探していると知人から知った。世界に野球を広めたいという思い。ならば広めてくれる人を育てる側に回ろうと、高校野球の監督に就任することを決めた。

 06年におかやま山陽の監督に就任するも、甲子園は遠い場所だった。07年から11年までは春季、秋季地区予選敗退が続き、県大会に行けたのは1度だけだった。11年の夏の岡山大会でも1回戦敗退。この後も結果が出なかったら…。新チームが始まるとともに、あることを始めた。ジンバブエやガーナ、発展途上国に集めたグラブやボールを送る活動だった。集めた中古の道具を送り、現地の子どもたちからお礼の手紙や写真が届く交流が始まった。不思議なことに、そこから野球部としての結果も出始める。12年からは地区予選負けなし。14年の春季大会では準決勝まで進み、同年秋には藤井皓哉が広島にドラフト4位で指名された。

 17年夏に悲願の甲子園初出場。そして今センバツで2季連続の甲子園出場となった。迎えた28日の乙訓戦。序盤に先制するも2-7で敗れ、甲子園初勝利はお預けとなった。試合後のお立ち台で堤監督は「長く(甲子園に)いないと伝わらないですね。また1試合で負けて残念だなと思います」と言ったが、確実に輪は広がっている。

少年野球のクラブから中古の野球道具を受け取るおかやま山陽・堤尚彦監督(右)(本人提供)
少年野球のクラブから中古の野球道具を受け取るおかやま山陽・堤尚彦監督(右)(本人提供)

 活動を知った人がアルプススタンドまでグラブやボールを持参し、地元の少年野球クラブも中古の道具を寄付する。甲子園出場が決まると、少年野球クラブから2ダースのボールの寄付が届いた。甲子園で使ったこのボールは、甲子園の土を付けた状態で子どもたちに返すつもりだ。岡山から甲子園へ、甲子園から世界へ。「野球普及」を目的にする限り、堤監督は甲子園を目指し続ける。【磯綾乃】