青森の小比類巻(こひるいまき)父子はともに甲子園で大活躍した。父英秋さん(63=八戸市)は1969年(昭44)夏、三沢の捕手で準優勝。太田幸司投手とバッテリーを組み、松山商(愛媛)と延長18回0-0、引き分け再試合の名勝負を演じた。長男英史さん(28=青森市)は2003年(平15)夏、光星学院(現八戸学院光星)の三塁手でベスト8進出を果たした。

 69年夏、三沢準優勝の原動力は大会を1人で投げ抜いた太田だが、小比類巻英秋も大きく貢献した。2番打者として当時の大会記録の通算8犠打(バント)を成功させた。失敗は1つだけ。捕手として、甲子園伝説の名勝負の決勝を含めて太田の投球を受け続け、支え続けた。だが本来は捕手ではなかったという。

 英秋 最初は外野手の補欠でした。2年秋の新チーム発足時に、正捕手の河村真(主将)が足を骨折して出場できなくなった。小中学校時代に一時捕手の経験があった私が代役に指名されたんです。太田の速くて威力のある球を受けるのは大変でした。突き指を何回したことか。1年生の捕手に受けさせてみると、太田の球が来た後にミットが出ていましたよ(笑い)。

スタンドにあいさつする小比類巻英秋(右)ら三沢の選手たち。右から4人目は太田幸司
スタンドにあいさつする小比類巻英秋(右)ら三沢の選手たち。右から4人目は太田幸司

 英秋がマスクをかぶって秋の県大会、東北大会で優勝した。翌春のセンバツは河村が出場したが、腰ヘルニアが悪化。三沢に帰ってから捕手は無理との診断を受けた。三沢は68年夏から3季連続で甲子園に出場したが、最初の2季は河村捕手。甲子園で英秋が捕手を務めたのは、69年夏が最初で最後だった。

 英秋 太田はすでに全国区の好投手と評判。もし負けたら急造捕手だった私の責任で、すごいプレッシャーだった。延長18回の決勝は「いつ終わるのか」という気持ち。翌朝、太田は肩が上がらない状態で「何十点も取られるぶざまな試合だけはしたくない」と言っていた。結果は4失点で、2点は内野エラーと私の捕逸。太田は立派でした。

 34年後の夏、長男英史は光星の2年生で甲子園に出場しベスト8進出。準々決勝でダルビッシュの東北(準優勝)に1-2で惜敗した。関西など各地から有力選手が集まった光星。英史の学年は55人いたが、地元八戸市是川中出身の英史が1年秋からレギュラーの座を獲得した。甲子園ベスト8の後、国体で優勝。青森勢初の全国Vだ。

 英史 小さい頃、父はキャッチボール、トスバッティングをしてくれました。トスバッティングは木製バットと硬球を使い、芯に当てて、投げた父の方に正確に打球を返す練習を繰り返しやらされた。太田幸司さんが三沢に来た時は父が連れて行って、太田さんとキャッチボールをやらせてもらった。「頑張れ」と激励してくれました。

 英史は光星卒業後、岩手大で活躍。北東北大学リーグの優勝争いも演じた。現在は青森銀行に勤務し、野球部(軟式)でプレー。全国大会にも出場した。

 英秋 息子の応援で甲子園に行きました。暑い中を移動し、スタンドも暑くて大変。(試合を)やってる方が楽かな(笑い)。層の厚い光星でレギュラーになり、甲子園ベスト8。息子は頑張ったと思います。

 英史 父が甲子園で、すごい試合をやって準優勝という話は、周囲から聞いたんです。家で準優勝のメダルなどを目にしていたが、父はその話はあまりしなかった。自分は甲子園で決勝まで行けなかった。最近あらためて父は偉いなと思います。光星の後輩には練習でも「今」を大事にしてほしい。そして東北で最初に甲子園で優勝してほしい。(敬称略)【北村宏平】