秋田経法大付(現明桜)の黄金期を、杉本ツインズが支えた。双子の杉本宗人捕手、正人内野手(現在42)はレギュラー入りした2年夏から3季連続で甲子園に出場。夏通算4勝を挙げ、初出場の1989年(平元)夏には県勢6度目の4強入りに貢献した。

 2人は男鹿半島の小さな町(男鹿市内)に生まれ育った。ともに五里合小4年から野球を始め、一緒に秋田経法大付に入学。宗人は捕手、正人は三塁手として2年夏からレギュラー入り。3季連続で、甲子園の土を踏んだ。

90年8月、横浜商戦で本塁を死守する杉本宗人
90年8月、横浜商戦で本塁を死守する杉本宗人

 宗人 田舎だったので、子供のころは野球が遊びだった。近くの農協の壁にボールを投げ合って兄弟でよく遊んでいましたね。僕はプロテクターを着けたくて捕手になった。母子家庭で経済的に苦しく、高校は特待生で入れてもらった。

 1学年下にはエース左腕中川申也(のち阪神)がいた。当時25歳の鈴木寿監督(現寿宝=秋田修英監督)の下で、甲子園でも快進撃した。

 宗人 中川は1年生とは思えない球を投げた。スピードとキレがあって(入学後の)1球目は捕れなかったぐらい。監督から「それでは先輩として後輩を指導できない」と厳しい言葉をかけられ、(捕手として)一生懸命頑張りました。

 89年夏の甲子園初戦(2回戦)は5-0で出雲商(鳥取)に快勝した。試合ごとに宿舎の荷物をまとめ、あれよあれよと準決勝進出。優勝した帝京(東京)に0-4で敗れたが秋田経法大付として初の1大会3勝を挙げ4強に輝いた。

 正人 やはり中川が一番注目されましたが、私たちも双子ということで注目されましたね。小さい時は何かと比較されて嫌でしたが、高校ではポジションも違うし、逆に心強く、いい刺激になりました。

 翌90年春のセンバツ初戦は鹿児島実に逆転負け。4-2の9回表、相手の代打攻勢で3点を失い、その裏に宗人が最終打者になった。

 宗人 (最後の打席は)悔しすぎて覚えていない。最終回の代打攻勢は、相手が諦めたと勝手に思ってしまったんです。それがガンガン打たれ、勝ちを落としてしまった。

90年8月、育英戦でサヨナラ打を放った杉本正人
90年8月、育英戦でサヨナラ打を放った杉本正人

 一方、正人は89年夏の秋田県大会(5試合)で全国5位の打率6割1分5厘をマークしたほどの強打者だった。90年夏の甲子園、2回戦の育英(兵庫)では延長13回裏2死一、三塁から中堅越えサヨナラ打を放った。

 正人 アウトコースの高めの真っすぐです。5番打者でチャンスは何回もあった。すべて凡退で6回目のチャンスに絶対決めてやるという気持ちだった。全力でスイングしてバットに当たったんです。

 だが続く3回戦で横浜商に延長12回2-3と惜敗。それぞれ守備、打線の要としてチームに貢献してきた杉本兄弟の甲子園は終わった。

現在の宗人さん(左)と正人さん
現在の宗人さん(左)と正人さん

 卒業後は別々の道を歩んだ。正人は秋田市役所に就職し、軟式野球部で38歳までプレーした。宗人は秋田経法大(現ノースアジア大)に進み、全日本大学選手権に出場。その後、教員として秋田経法大付コーチやノースアジア大監督を歴任。現在は地元企業に勤務しながら、NPO法人スポーツコミュニケーションで地元の子供たちを指導する。

 宗人 子どもたちの気持ちに寄り添いながら、具体的に技術指導をしています。巣立っていた子が高校や大学、社会人で活躍したり、プロ野球選手になったら楽しいですね。(敬称略)【佐々木雄高】