楽天斎藤隆投手(45)は野球一家の三男に生まれた。東北(宮城)で甲子園に出場した4学年上の長男明さん(82、83年春)、2学年上の次男功さん(85年春夏)の2人の兄を追って同校に進学。87年の高3夏に、一塁手として甲子園出場を果たした。横浜で98年日本一、06年からメジャー5球団を経験した斎藤の野球人生は、長兄の練習の手伝いから始まった。
斎藤にとって野球以外の選択肢はなかった。物心ついたときから、野球をやっていた。
斎藤 最初は兄貴にティーをあげたり、練習を手伝っていました。生まれてすぐ高校の寮に入ったような、そんな人生(笑い)。とにかく野球が好きな兄で、野球をいいかげんにやるのを許さなかった。僕に厳しくする以上に、自分に厳しい人でした。
斎藤家独特の練習メニューがあった。明が東北に入学してレギュラーをとるため、守備練習の強化月間があった。
斎藤 兄貴が夜に家へ帰ってくると起こされて、ゴロをとる練習に付き合わされました。家の裏の空き地に懐中電灯を持って行って、地面に置くと2メートルくらいの光の筋ができます。そこにボールを転がすと、真っ暗闇から兄貴がダーッと走ってきて捕球するんです。それを夜中の12時ぐらいにやるんですよ。練習の鬼でしたね。兄貴の練習の相手がしんどかった。野球をやるのはこんなに大変なんだと思いました。
2人の兄の背中を追った。次男功が続き、斎藤も東北に進学した。87年の高3の夏、決勝で仙台育英を倒し、3兄弟通算5度目の甲子園出場を決めた。
斎藤 うれしくてずっと泣いてました。兄貴からは東北はやめたほうがいい、絶対通用しない、すぐやめるからって言われていました。でも東北高校しか行く気はなかった。

- 87年8月 智弁和歌山戦の6回、犠飛で生還する東北・斎藤
2人の兄が踏んだ聖地に、斎藤も足を踏み入れた。5番一塁手で出場した智弁和歌山との初戦で2安打を放ったが、2回戦では帝京(東東京)の芝草宇宙(のち日本ハム)にノーヒットノーランを許し0-3で敗れた。
斎藤 (四球で)毎回走者が出てたけど、なかなか点にならなかった。マネジャーが無安打だぞと言い出したのが6回。そういう意識はなかった。仙台に帰れないぞって話にもなりました。いまだに芝草の投げたカーブが残像で残っています。フォークも打たされました。手前でクッと落とされたという記憶が残っていますね。
斎藤にとって、甲子園は刺激的な空間だった。87年夏は後の横浜でチームメートとなる野村弘樹(PL学園)、島田直也(常総学院)、1学年下の石井琢朗(足利工)、谷繁元信(江の川)、佐伯貴弘(尽誠学園)らがしのぎを削る大会だった。
斎藤 甲子園でプレーしたことが、すごい刺激になりました。同級生や1学年下にこんなにスゴイやつがいるんだ、と衝撃を受けました。高校生が野球でワクワクドキドキすることってそんなにないんですよ、練習がきつくて。実際はその時は思わなかったけど、後になって野球をやってきて良かったなと思いました。
東北福祉大2年時に内野手から投手に転向。ドラフト1位で入団した横浜では98年に日本一に輝き、06年にはメジャー挑戦。ドジャースを皮切りに5球団を渡り歩いた。昨年までに日米通算112勝139Sを挙げ、今季プロ生活24年目を迎えた。
斎藤 甲子園に行った衝撃で、もうちょっとだけ野球を続けたいなという当時の思いと、(ここまで来た)今とのギャップはいまだに不思議だと思っています。甲子園というすごいところで野球をやれたんだなって、あらためて思います。(敬称略)【高橋洋平】



