重い扉をこじ開けた。13年夏の甲子園準々決勝。日大山形の5番吉岡佑晟(ゆうせい、関東学院大2年)が放った敬遠後の勝ち越し打が、県勢の歴史を変えた。4-3で明徳義塾(高知)に逆転勝ちし、県勢で初めて4強に進出した。

13年8月、明徳義塾戦で勝ち越し打を放つ吉岡
13年8月、明徳義塾戦で勝ち越し打を放つ吉岡

 怒りが体を突き抜けた。3-3の同点に追い付いた直後の8回2死三塁。4番奥村(現ヤクルト)が敬遠された。敵将馬淵監督は前の打席で適時打の奥村を避け、3打席凡退の吉岡との勝負を選択した。

 吉岡 イライラしていた。なめられてるのかなと。成績見れば全然打ててなくて、自分で勝負してくると思ったけど、目の前でやられるとイラついた。でも(荒木)監督から「結果は気にするな。思いっきり行け」と言われ、力は抜けていた。一塁の奥村も笑ってこっちを見て「お前打てるよ」と言ってくれた。絶対打ってやるという気持ちだった。

 ほとばしる思いがバットに宿った。相手エース岸(現拓大)が投じた2球目の139キロ直球を右前にはじき返した。

 吉岡 自分でも興奮していた。芯じゃなかったけど、ちょっと詰まった当たりで結果ライト前。一塁ベースを踏んであらためて実感した。甲子園で初打点。いいところで1本打てた。

 旋風を巻き起こして、県勢で初めて準決勝に進出した。初戦で優勝候補の日大三(西東京)に7-1で完勝すると、3回戦は作新学院(栃木)に初回先制されるも5-2で逆転勝ち。全国制覇経験校を3度撃破した勢いで、前橋育英(群馬)戦に臨んだはずだった。

 吉岡 初回1死満塁で自分が併殺に倒れて、流れが傾いた。打ちあぐねているうちに相手に流れをつくられて、ズルズルいった。

 初回の先制機を逃すと、逆に直後3イニングで連続失点。2年生エース高橋(現西武)から7安打しか打てず1-4で敗れた。東北初の全国制覇まであと2勝と迫りながら、力尽きた。

 吉岡 (倒してきた)相手の名前みたら強豪校だし、初出場相手に負けるわけない、大丈夫って思ってた。気持ちは入ってたけど難しかった。全国4強が最大の目標だった。達成して変に余裕ができて、1回気持ちが切れた。

13年夏、日大山形の成績
13年夏、日大山形の成績

 新チーム結成後、県勢初の全国8強を達成した06年の先輩を超えるため、全国4強を目標に掲げた。チーム状態が上がらない2月には、06年世代の甲子園での激闘をDVDで見て、目標を再確認した。春県大会は1勝に終わり、6月の仙台育英(宮城)との練習試合は3-11で大敗。ふがいない試合内容に、荒木監督から山形の関沢インターで降ろされ、学校までの20キロを走らされたこともあった。苦しみ抜いてつかんだ甲子園で目標をクリアしたことで、チーム内に達成感が充満していた。

 吉岡 4強にはなったけど、切り替えが難しかった。目標をただ高くすればいいわけではない。低すぎればその手前で終わる。4強という明確な目標を立てていたけど、達成した後の目標をつくっていれば、気持ちの入れ替えがうまくいってたかも。自分たちの中で4強という目標が大きすぎた。

日大山形を卒業後、関東学院大に進学した吉岡(撮影・高橋洋平)
日大山形を卒業後、関東学院大に進学した吉岡(撮影・高橋洋平)

 日本一を目前で逃した悔しさもあって、関東学院大で野球を続けている。今でも4強メンバーで集まると、負けた準決勝を振り返る。

 吉岡 あの時こうやってたら優勝してたんじゃね? 何で打てなかったのかなという話になる。冷静に考えたら(勝てなかった責任は)自分ですかね。初回で先制していたら、流れが悪くならなかった。どうせだったら塗り替えられない歴史をつくるべきだった。塗り替えられるなら、母校にやってほしい。(敬称略)【高橋洋平】