岩手・二戸市にある福岡は1927年(昭2)の初出場以来、夏10度甲子園に出場している県屈指の古豪だ。最後に出場した85年のエースで、現在母校コーチを務める斉藤幸二さん(48)は、強い福岡の復活を願っている。

85年8月、佐賀商戦で投球する福岡・斉藤
85年8月、佐賀商戦で投球する福岡・斉藤

 真っ白なユニホームの左胸には丸みを帯びた「H」の字。「FUKUOKA」のFではなく、Hなのは二戸出身の学者が提案した日本式ローマ字の表記を取り入れたからだ。ストッキングには甲子園出場数を表す10本の赤い線。戦前から変わらない歴史あるユニホームは、今でも使われ続けている。

 30年前の夏、このユニホームで開会式に臨んだ斉藤は「笑われた」と振り返る。

 斉藤 あまりにもシンプルすぎて、「練習用ですか?」と、入場行進の時に他のチームに言われました。

 戦前に5度出場、戦後も61年まで3度出場したが、その後80年に欠端光則(現DeNAスカウト)を擁して出場するまで19年間甲子園から遠のいた。それからまた5年が空いた85年春。チームは県大会初戦で敗退。前年秋も初戦敗退しており、左腕エースの斉藤も肘の痛みが治らない。夏は厳しいとみられていた。

 斉藤 OBに怒られっぱなしのチームでした。大会直前に恒例の合宿があるんですが、毎日12~13人来て、ノッカーが代わる代わるです。大会中も盛岡の宿舎にOBが来て、毎晩叱咤(しった)激励(笑い)。期待の表れなんでしょうが、尻をたたかれながら上にいけたのかな。私は、直前まで痛みはひかなかったから不安だったんですけど、大会に入ると痛みが消えた。夏の県大会は防御率0・60ぐらい。打たれる気がしませんでした。

 だが、甲子園では初戦で佐賀商に4-6で敗れた。斉藤は、緩いカーブを中に外にうまく散らす好投をみせたが、4回に5安打と失策が絡み5失点。そこで集中力が途切れた。

 斉藤 一気に失点して、自分じゃなくなってしまいました。バッティングにも影響し、雑になってしまって…。あの時、もっと冷静でいれば良かったなと今でも思います。あっという間の甲子園でしたが、その後月日がたつにつれ、勝ちたかったという気持ちが強くなっています。

85年夏1回戦のスコア
85年夏1回戦のスコア

 高校卒業後、岩手銀行に就職し、28歳まで10年間野球部でプレー。廃部後は、福岡高OBによるクラブチーム「福高クラブ」に入り、今でも投手を続けている。また、13年前からは二戸市内でラーメン店を経営。たまに母校の後輩に指導をしていたが、昨年から正式に外部コーチとして強化に努めている。

 斉藤 昔は青森、八戸、南部、三戸など近隣の「エースで4番」が福岡に集まりましたが、今は私立に行ってしまっている。それでも同じ高校生で、技術的なことはそんなに変わらない。よくやったな、では終わらせたくないです。

 自分が甲子園に行った夏から30年。「最後の」と言われることから「早く解き放たれたい」と話す。

 斉藤 勝ちを取りこぼして、ずっと引っかかってるんです。福高を強くすることが「最後」と言われない近道ですね。(敬称略)【高場泉穂】