青森野球部は1903年(明36)創部で夏の甲子園に4度出場した。1960年(昭35)に甲子園で初勝利。青森勢の夏の甲子園初白星でもあった。当時のエース工藤浩二さん(72=栃木県栃木市在住)は県大会、北奥羽(青森・岩手)大会、甲子園で5試合連続完封を含む57イニング連続無失点の記録をつくった。それを支えたのは猛練習と仲間への信頼だった。

 60年夏の甲子園1回戦で青森が東北(宮城)を1-0で破った。東北は前年ベスト4の強豪だったが、工藤が2安打4三振4四球で完封。バックは無失策で支えた。8回には工藤が自ら二塁打を放ち、唯一の得点のホームを踏んだ。学校としても県としても待望の夏初白星に地元は沸いた。

 工藤の無失点記録は県大会の初戦七戸戦(6-4)の8回から始まる。準々決勝青森工戦(1-0)準決勝弘前戦(10-0)北奥羽大会・準決勝宮古戦(延長11回、1-0)決勝一関一戦(1-0)甲子園初戦と5試合連続完封。実に4試合が1-0の勝利だった。2回戦の大宮(埼玉)戦で9回に1失点。最後は逆に0-1で敗れた。

 だが県大会準々決勝以降、6試合を1人で投げ抜き、連続57イニング無失点。快記録のきっかけは「暴投」だ。県大会初戦の七戸戦で7回1死満塁のピンチに工藤が救援登板し、暴投で1失点した。

 工藤 その瞬間、ひらめいたんです。なぜこんな投球をするのか。1球1球を全力で投げていたが、独り相撲だった。うちのチームは守備もすばらしい。バックを信頼し、コントロールを大事に投げようと。するとマウンドから周囲がよく見えてきた。スローボールやカーブを交えてストライクが先行し、投球が楽になった。攻めの投球ができるようになりました。最後の夏にやっと気づいた。

 工藤は167センチと小柄だが球は速く、1年生から登板。1年秋の県大会八戸戦でノーヒットノーランを達成。奪三振13、四死球はなんと9個だった。2年春の同田名部戦では奪三振20、無安打に抑えながら四球で走者を出し、暴投で1失点した。三振か四球の「独り相撲」ピッチングが続いていた。最後の夏の「気づき」が快記録を生んだ。

 工藤 練習量では県内の誰にも負けないと自負していました。投球練習は毎日300球以上。全体の練習が終わってみんなが帰り、暗くなっても、1本の街灯の明かりで練習した。自分で考案した運動で足腰を鍛え、投球方法も磨いた。軸足1本で立って誰かに押させても、びくともしなかったものです。

 工藤を指導し、励ましたのは村田栄三監督だった。岩手、青森、宮城の3県4校を5度甲子園に導いた名将。甲子園で初めて満塁策をとったと言われる人だ。青森の甲子園2回戦、大宮戦の9回1死一、三塁のピンチにも満塁策をとったが……。

 工藤 敬遠でも、勝負するふりの練習を捕手の永井満としていました。相手がスクイズをやってきたが、うまく外した。飛びだした三塁走者を「アウトにできる!」と永井は力が入ったんでしょう。三塁に悪送球して走者がかえった。でも永井は小中学校から一緒で、三塁手からコンバートで捕手になった。私が投手として生き返ったのも、永井のおかげなんです。

 青森は60年以来、甲子園から遠ざかっている。だが01年、昨年と青森大会決勝進出。あと1歩に迫った。

 工藤 公立でも甲子園に行けないことはない。練習量が絶対の自信のもとになる。人から教えられるのでなく、自分で「気づく」こと。甲子園に母校の応援に行きたいですね。(敬称略)【北村宏平】