東海大相模のセンバツ優勝を喜ぶ監督が、宮城にいる。宮城農野球部の赤井澤(あかいざわ)徹監督だ。赤井澤監督は、同校が東日本大震災で甚大な津波被害を受けた翌年の2012年8月、練習試合を通じて門馬敬治監督と出会った。その時の感謝を今も忘れずにいる。「試合結果は1-21のボロ負けでした。でもあの日、門馬監督にしてもらったことは絶対に忘れません」。震災10年。優勝した東海大相模の姿をテレビで見ながら、さまざまな思いがこみ上げている。


■2012年、東北の復興試合に東海大相模が参加。そして…

 

宮城には、JABA日本野球連盟が主催する「東北復興野球交流試合」という大会が8月にある。被災地の野球復興を願い、社会人、大学、高校の県内外計90チーム以上が参加している交流試合だ。東海大相模は2012年の第2回大会に参加。2度目のセンバツ優勝を果たした翌年夏のことだ。対戦した赤井澤監督は「大敗」から相模の強さを学んだと言う。

「相模さんは、ウチみたいなチームを相手にベストメンバーで戦ってくれたのですが、選手たちは打っても怒られていたし、勝っても満足していなかった。ベースを蹴る位置や、曲がり方。ベースランニングひとつとっても、随所にこだわりが見えた。意識の違いを感じました」。当時の宮城農は仮設校舎での生活。津波でグラウンドも室内練習場も失った。空き地を手作りで改修して練習を行い、翌年夏に県ベスト8入りを果たす。「あの時、相模は本気でぶつかってきてくれた。高いレベルの野球を見せてくれた。そのことが選手たちの刺激になり、いい結果につなげることができました」と感謝する。


■「生徒が栽培した日本一の米を食べてもらいたい」宮城農・赤井澤監督


感謝したい思い出が、もうひとつある。練習試合のあと門馬監督がとった行動だ。

「試合後すぐ神奈川に帰る予定だったはずですが、門馬監督が『宮城農の校舎をぜひ見せてください』と言ったのです。ここから遠いですよ、帰りが遅くなりますよと言ったのですが『それでもいい』と。そんなことを言ってくれたのは門馬監督が初めてでした。うれしかった…」。赤井澤監督は津波被害に遭った旧校舎とグラウンドを案内した。門馬監督の両親が福島出身だという話を後から聞いたときは、急に親近感がわいたという。2015年夏の甲子園優勝の時はメールのやりとりをした。9年たった今も交流が続いている。


「震災から10年。節目の年に相模が優勝。なにか縁を感じます。優勝のお祝いに米を贈ろうかなと思っています。生徒が栽培し、日本一おいしい米コンテストで日本一を取った米を食べてもらいたいですね」。門馬監督は優勝インタビューで「2年分の春、すべての高校野球がこの甲子園に戻ってきた」と言った。震災、コロナ禍。国難と言えるような大変な年に東海大相模は、強い。負けない。ひたむきにプレーし優勝した選手たちの姿は、復興から立ち上がる宮城農だけでなく、多くの人に希望を与えたはずだ。【樫本ゆき】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「いま、会いにゆきます」)