<センバツ高校野球:大垣日大7-0東北>◇28日◇1回戦

 11日に発生した東日本大震災の被災地から出場した東北(宮城)が、1回戦で大垣日大(岐阜)に0-7で敗れ、激動の18日間が幕を閉じた。調整不足の影響もあって1回にいきなり5失点。打っては4安打完封を喫して聖地を去った。給水活動を手伝っていた仙台では「野球のことは考えられない」生活を送り、甲子園入り後は一転して「復興の希望」として注目される日々。その裏では「死」という現実に直面しながら、懸命に野球に打ち込む姿があった。

 困難を乗り越えて立った夢舞台は、1試合で幕が下りた。昨秋の東北大会を制した力を発揮することはできなかった。健闘をたたえる拍手が鳴りやまない。五十嵐征彦監督(35)も「調整不足か」と聞かれ「いえ、力不足です」と認め「結果より選手の全力プレーがうれしい」と目を赤くした。

 やはり本調子ではなかった。エース上村は1回、初球の126キロ直球が内角高めに浮き、いきなり右翼席へ運ばれる。その後も連打を浴びて5失点。5回2/3を14安打7失点で降板したが「スタンドから『頑張れ東北』の声をもらい、力になった」と言い訳しなかった。

 長く、苦しい18日間を思えば、プレーできるだけで幸せだった。地震が発生した11日、寮の向かいの中学校で約200人の避難者と寝た。暗闇の中。「どうなるんだろ、甲子園」。誰かがつぶやき、また静まり返った。「正直、野球どころじゃなかった」という選手は翌朝から給水活動、物資運搬の手伝いを始める。五十嵐監督はコンビニを回って食料をかき集め、ポテトチップスで食いつないだ。同監督は「もし誰かの家族に不幸があった時は出場辞退だ」と決めていた。

 14日未明、最後まで不明だった佐藤拓の家族が無事と分かる。翌15日。ナインは給水活動から戻るバスの中で「吉報」を知らされた。副将の小川は「自分たちだけ喜べませんが」と前置きした上で「本当にうれしくて、車内が『ウオー!』と沸いた。涙目の選手もいた」と明かす。「人を優先する生活を送ってチームワークが良くなった」(上村)。極限の状況で一丸になった。

 出場決定後、学校には批判の声も届いたが、給水活動で接した地元住民から「君らは悪くない。胸を張れ」と送り出された。それでも、簡単には切り替えられない。死。無縁に思えた現実に容赦なく襲われた。救援で9回1イニングを無失点に抑えた片貝は、母方の伯母が岩手・大槌町で津波にさらわれた。「親戚が遺体安置所を回っていますが、見つからなくて…」と視線を落とす。配慮から、親族の不幸を知らされていない選手も多い。

 練習の手伝いなどをする5人いる補助員の1人でもある上田は、応援熱心だった伯父伯母が福島・南相馬市で変わり果てた姿で見つかった。宮城・七ケ浜町出身の工藤は「中学のクラスメートが2人、死んでしまった。初戦前夜なのに、2人のことが頭に浮かんで眠れなかった」。多感な高校生には重すぎる現実と、復興の希望という周囲の期待のはざまで懸命に戦っていた。

 この日午前7時24分、宮城県中部で最大震度5弱を観測。本震以降の2週間で大きな余震は347回起きた。全員で帽子のつばに「2011・3・11東日本大震災」と書いた選手は、今も恐怖と戦う地元を思って全力疾走を繰り返した。試合後、約2万7000人の拍手に鳥肌が立ち、涙腺が緩みそうになったが、こらえて頭を下げた。甲子園の土は持ち帰らない。上村は「実力で夏に戻ってきて、出場させてくれた方々に恩を返したいので」と言い切った。勇気づけることは簡単ではない。しかし、届く人には届くと信じて東北ナインが聖地を後にした。【木下淳】