2000安打の大台に到達し、重鎮ぞろいの「名球会」に名前を連ねたとはいえ、青木宣親はいわゆるエリート街道を歩んできたわけではない。むしろ、常に「つまずき」からスタートし、自ら結果を残し続けることで、大記録への道を切り開いてきた。

 宮崎・日向高時代は、全国的にほぼ無名の投手だったこともあり、名門・早大進学時はほとんど注目されていなかった。1学年上では、和田毅(現ソフトバンク)が絶対的なエースとして活躍。同学年でも、甲子園組の鳥谷敬(現阪神)らが、洗練された選手として、早くからチームの中心にいた。青木が打者に専念したのは、大学入学後。実力も違えば、立場も違った。「入ったばかりの頃は、本当の野球のことを知らなくて、練習にもついていけませんでした」。だが、打者としての可能性や伸びしろを感じていた青木は、常に「何とかなる」と自らに言い聞かせていた。入学時に歴然としていた差を埋めるには、ただ練習するしかない。人一倍のスイング量をこなし、徐々にその差を埋めていった。

 早大でレギュラーを獲得し、主軸として同校史上初の4連覇を遂げた黄金期を支えた実績もあり、2003年ドラフトではヤクルトから4位で指名された。だが、プロ入り後、すぐにカベにぶつかった。1年目はオーブン戦で1本の安打も打てず、開幕は2軍。結果的にイースタン・リーグで首位打者を獲得した一方で、1軍出場はわずか10試合にとどまった。成績は、15打数3安打6三振、打率2割。「バットに当たらなくて、三振ばかりしていました」。2年目に定位置を取るまでは、苦悩の日々が続いた。

 2011年オフ、ポスティング制度でメジャーへ移籍した際も、高額の入札金とは無縁だった。ブルワーズが交渉権を得たとはいえ、契約前にはトライアウトを「受験」。事実上のテストをクリアして入団が決まった。開幕後にしても、当初は代打、守備要員からスタートした。「1番右翼」の定位置を確保したのは、5月中旬だった。

 青木の野球人生は、最初からうまくいった試しがない。言い換えれば、目の前にレールが敷かれていたことがない。だからといって、無用なコンプレックスもなければ、力みもなく、常にプラス思考で壁を乗り越えてきた。

 青木にとって、最初の「つまずき」は、成長、発展するための第1歩-。

 大記録に到達しても、青木の根本にある生き様は変わらない。【MLB担当=四竈衛】