「伝説の早慶6連戦」。当時の話を聞くために早大の主将だった徳武定祐氏(76)に会いにいった。東京・目白駅にほど近い喫茶店。6連戦を生観戦し取材を仲介してくれた後藤譲氏(75)とお茶を飲みながら約2時間。徳武氏は懐かしむように、うれしそうに話をしてくれた。

 第3戦で徳武氏の本塁への猛烈なスライディングを巡って両校がもめ、あわや没収試合という場面があった。「ダメ押し点が欲しくて無我夢中でね。あの時は慶応の前田監督に救ってもらった」。攻撃を終え、三塁の守備に就いた徳武氏に三塁側慶大応援席からみかんや缶が飛んできたという。このままでは収拾がつかず没収試合になってしまう。そんな危機を救ったのが慶大・前田祐吉監督だった。ベンチから出るとスタンドに向かって手で制すと、三塁ベースコーチに立ったのだ。これでは慶大側も物を投げ込めない。敵将が盾になって徳武氏を守ったのである。

 「前田さんには感謝の気持ちしかないですよ。今でも年賀状を交換しています」。

 徳武氏にはもう一つ、忘れられない思い出がある。4番打者ながら5試合を終え17打数1安打の大不振。主将という責任感、4番の重圧に加え、さらに悩まさせていることがあった。自身の進路問題だ。当時はドラフト制度がなく自由競争。東京6大学のスターの獲得を目指し激しい争奪戦が繰り広げられていた。

 「近鉄以外の11球団から誘ってもらった。マスコミからも連日追いかけ回されていてね。疲れているのに眠れない、そんな毎日だったなあ」。

 見かねた石井連蔵監督から第5戦の終わった夜、合宿所の監督室に呼ばれたという。

 石井監督 今、ここで(球団を)決めろよ。

 徳武 分かりました。国鉄(現在のヤクルト)に決めます。

 「これで楽になった」という4番打者は一夜明けての第6戦、3安打を放つ活躍で勝利に貢献した。

 優勝が決まった翌日、1960年(昭35)11月13日付の日刊スポーツ1面は、右半分が「早大、3シーズンぶりの優勝」。左半分を割いて「徳武、やはり国鉄」の見出しが躍っていた。【福田豊】