4日午前5時25分に70歳で死去した楽天星野仙一球団副会長の密葬が6日、三重県津市で執り行われた。星野氏は16年7月に急性膵炎(すいえん)を発症したことをきっかけに膵臓がんが判明。昨年末に病状が悪化し帰らぬ人となった。中日のエースとして打倒巨人に執念を燃やし、中日、阪神、楽天で監督を歴任。「闘将」と呼ばれ愛された野球人が旅立った。

 「燃える男」「闘将」。強烈な個性を放ち続けた星野氏が突然、旅立った。昨年12月に行われた野球殿堂入りを祝うパーティーで元気な姿を見せていたが、年末に病状が悪化。同28日からハワイ旅行を計画していたが、それもキャンセル。新年を迎え、4日に70歳の人生を終えた。

 息を引き取る直前まで「コーチ会議に出られるかな」と話していたという。家族に見守られ、最期は昼寝をしているように穏やかな様子だったという。この日、三重・津市で葬儀が行われた。本人の強い意向で密葬で営まれた。

 強者に立ち向かうスタイルを貫いた。強豪ではなかった岡山・倉敷商から明大に進み、1968年(昭43)ドラフト1位で中日に入団。指名の約束を得ていた巨人入りがかなわず、王、長嶋がチームを率いるV9時代の巨人に対抗心を燃やした。「オレのマウンド姿を田舎に見せられるのは巨人戦だけ。強いものをやっつけるというのも性にあっていた」。徹底して内角を突くスタイルで通算146勝、うち巨人戦35勝は歴代6位の記録を残した。

 指揮官としても戦い続けた。中日では2度、阪神では1度リーグを制した。阪神監督時代には02年オフに「血の入れ替え」を敢行し、大幅補強で翌03年のリーグVにつなげた。監督として日の丸を背負った08年北京五輪は4位。頂点にあと1歩手が届かない中で、楽天を率いた13年、若い選手たちを「俺の人生のライバルなんだ。勝って恩返ししたいんだ!」と鼓舞し、4勝3敗で巨人を倒し日本一に導いた。監督通算1181勝は歴代10位。闘将のあまりの突然の死に球界は悲しみに暮れた。

 野球人口の減少を憂い「未来の野球界へ、何とか恩返しをしたい」と、次の目標を定めていた星野氏。後日、お別れの会が行われる。

 ◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日、岡山県倉敷市生まれ。倉敷商から明大を経て68年ドラフト1位で中日入団。「巨人キラー」として巨人から35勝。監督通算1181勝は歴代10位。現役時は180センチ、80キロ、右投げ右打ち。