楽天時代の星野監督は、庭だったナゴヤドームに来ても、あまり表に出てこなかった。グラウンドに向かう三塁側通路の向かって右、小さな控室が好きで、存在を消すために電灯もつけず、選手を見ていた。

 暗がりで「ここは相変わらず広いわ。フェンスも高い」とつぶやいたことがある。ナゴヤドームが開場した97年の開幕前、中日を率いていた星野監督が「最下位を覚悟して戦う」と言い放った…そんな記述を思い出した。「普通、うそでも『優勝する』と言うでしょう。しかもドーム元年で」と尋ねると、笑われた。

 「球場のサイズが全く違う。すごく狭い所から、ものすごく広い所で戦う。点は入らないものとして、まず防御、センターライン。後は1点を取るためのスピード。野球が変わると、みんなに分からせたかったから『最下位』って言った」

 マクロからミクロへの反転。切り替えるには時間が足りないと分かっていた。予言は的中し97年は最下位。俊足と硬軟多彩な投手を整えて配し、翌年から2位→優勝と駆け上った。「堅守とスピード」は中日を支え、長くAクラスに居座る最大の根拠になった。

 楽天の監督になり、最初に目指した野球も「堅守とスピード」だ。就任から本拠地の外野を毎日歩き、広さを痛感した。「長打は望めない。1点を取って、1点を守る野球だ」と定めた。しかし、初めてのパ・リーグにはね返された。

 野球名鑑を見ては「あの飛ばすヤツは誰だ」と驚き「パはレベルが高いわ」が口癖になった。球場の規格を上回るパワーも備えなければ勝てない。振り込ませ、投げ込ませ、飛ばし屋を補強し、3年目に勝てた。

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 楽天は追悼試合にふさわしい攻撃で送り出した。ペゲーロの2ランで先制した1回。エンドランに2盗塁で追加した3回の4点。ヒット1本で一、三塁の理想型を続けた5回。大胆と繊細を両立させた。中日は1回に大島-京田の連続長打でスピードの一端を見せたが、続かなかった。両軍にコントラストは出たが、星野監督が注ぎ込んだ血潮は同じ。1つの野球観に固執せず、環境や時代を受け入れて柔軟に変え、強くした。【宮下敬至】