1988年(昭63)10月19日。川崎球場で行われたロッテとのダブルヘッダーで奇跡の大逆転優勝を目指して戦った近鉄の夢は最後の最後で阻まれた。あれから30年。選手、コーチ、関係者ら15人にあの壮絶な試合とはいったい何だったのかを聞いた。

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エース阿波野秀幸(54)にとっての「10・19」とは…。

第1試合、1点リードの9回無死一塁から登板。2死満塁まで追い詰められたが、三振を奪い最終戦へ。第2試合。1点リード直後の8回から登板。高沢に同点ソロ。2日前に120球を投げていたエースが力尽きた瞬間だった。

阿波野 もちろん高沢さんに打たれたシーンは今も鮮明に覚えています。ただもうひとつ印象に残っている場面があります。9回裏に淡口さんがギリギリでキャッチしてくれたプレーです。あれがヒットなら試合は負けていたのですから。

第2試合の9回裏も波乱に富んでいた。二塁けん制を巡り、ロッテ有藤監督の猛抗議などもあり、貴重な試合時間が失われていく中で2死満塁まで攻め込まれた。3番愛甲のレフト前方に上がった打球を途中から左翼に入っていた淡口が地面スレスレで好捕したのだった。

阿波野 あの時点ではもちろんチャンスが残ったわけですから、ホッとしたというか…。そんな印象が強く残っています。

エースとして究極のラスト2試合を託され、最後の最後で勝ち切ることはできなかったが、やはり負けて終わることだけは避けたかったのだろう。

86年ドラフトで巨人、横浜、近鉄が1位指名。意中外でなじみのない関西球団の交渉権獲得に困惑した。近鉄1年目で新人王を獲得し、成績面だけを見れば順調なスタートだったが、プロ野球人としての戸惑いは続いていた。チームは最下位に沈み、岡本伊三美監督が退陣した。

阿波野 プロってこんなに簡単に監督が代わるのか、とビックリしました。高校も大学も監督はずっと代わらないもの、という感覚でした。

大学は強豪の亜大に進んだが、高校は横浜市立桜丘。文字通り普通の高校で普通に野球をしていた。「後にも先にもプロ野球選手はいまだに僕だけですからね」と阿波野。後にパ・リーグ審判部長となり、奇しくも「10・19」最終戦で球審を務めた前川芳男が「プロ野球関係者という意味では唯一の高校の先輩」(阿波野)という不思議な巡り合わせこそあったが、もちろん現役当時は審判との交流などない。プロの世界になじむまでにはそれなりの時間が必要だった。

阿波野 あの日だけで終わっていたら、単なる思い出にしかならなかったと思います。ただ翌年、優勝できたことで努力の仕方次第では結果が出るということを教えてもらったような気がします。2年かかりましたが、チームとして1つの結果を成し遂げることができた。その中心にいた。あの2年間は自分のプレーヤーとしての「ハイライト」でした。

戸惑いのサウスポーが経験を重ね、3年目でリーグ優勝を手にした。プレーヤーとしての「ハイライト」から30年。来季は亜大の1年後輩、与田剛が監督となった中日で投手コーチを務める。(敬称略)