伝説の試合で最後の打者となった羽田耕一(65)は30年前のあの打席を「もし打っていたら今の自分はないかもしれない」と振り返った。

◆第2試合 10回表1死一塁。二ゴロ併殺に倒れて無得点。試合制限4時間まで残り3分を切り、この瞬間、優勝の可能性は事実上消滅した。

羽田 やはり印象に残っているのは最後のバッターになったこと。普通の試合なら引っ張っていたと思う。あの時に限っては気持ちがふらついていたのでしょうね。時間的にも最後の攻撃のチャンスというのはわかっていましたから。なんとかつなごうとおっつけにいってしまった。それでも打った瞬間は「抜けた」と思ったのですが…。

二塁手西村はベース寄りに守っていた。強い打球のゴロを捕球すると自らベースを踏み、一塁に送球した。多くのナインは体からすべての力が失われたかのように立ち尽くし、やがて涙を浮かべた。

羽田 自分で打って返したいという気持ちが強ければ違った形になったのかもしれません。いままでだれにも言ったことありませんが、あの打席の結果が区切りなのかな、ユニホームを脱ごうかと考えました。

しかし羽田は球団の勧めもあり、現役続行。79年の初優勝を経験し、主力打者としてチームに貢献した強打者は翌89年のリーグ優勝を花道に引退した。コーチを経て編成を担当していた04年、衝撃の事態が起きる。球団合併による近鉄消滅だった。

転籍する形となったオリックスでは経験したことのない仕事からスタートした。「最初はチケット販売などの営業でした。ベテランの方についていくだけですよね。その後はコミュニティー部門で少年野球とかを担当しました」。そして母校・三田学園の監督就任のオファーが届き、今は総監督の立場で強化にかかわっている。

羽田 思い出すのも嫌だったんです。「10・19」のことは。ただ、もしあの試合で自分が打って勝っていたら、人生変わっていたかもしれないと思うことがあります。こうして今、高校野球にかかわることもなかったでしょう。振り返ってみるとあれだけ注目された試合はない。永遠に残る試合です。いい経験をさせてもらったと思います。自分にとっては勲章です。

30年の月日はだれもが「あの日」の色合いや位置付けを変化させることがある。「嫌な思い出」が長い時を経て「勲章」に変わることがあってもいい。それでもバットマンとしての悔いが今も残るのだろうか。

羽田 未来や過去にいけるマシンがもしあるのならあの日に戻って、もう1度、あの打席に立ちたいね。そして思い切り、引っ張りたいですね。

フルスイングの大事さをいまも球児に伝える。(敬称略)

◆羽田耕一(はだ・こういち)1953年生まれ。兵庫県出身。71年ドラフト4位で近鉄入団。通算1504安打225本塁打。近鉄コーチ、オリックス球団職員などを経て三田学園監督。現在は同校総監督。