シーズンオフ企画の水曜日は、かつて関西のパ・リーグ球団で一時代を築いた男たちのその後を追う「復刻! パ・リーグ伝説」です。阪急、南海、近鉄…。惜しまれながら消滅した老舗球団で暴れ回った名選手が、当時の秘話や近況を明かします。第1回は、阪急ブレーブスで「怪人」の異名を取り、史上初の外国人3冠王となったブーマー・ウェルズ氏(64)。来日のいきさつや思い出の一打、そして素晴らしき仲間たちについて語ってもらいました。【国際電話=高野勲】
2メートル、100キロ。褐色の巨体で日本球界を席巻したブーマー氏は、米ジョージア州の自宅で悠々自適の日々を送っている。引退後は代理人として活動したが、10年ほど前に引退した。
ブーマー氏 妻のデブラも私も、元気にやっているよ。実は娘のミカが、11月1日に結婚したばかりだ。頼まれれば近くにバッティングを教えに行く。オフはのんびりと過ごしている。
名助っ人は4歳のころ、父ウィリアムさんに野球を教わった。メジャー史上2位の755本塁打を放ったハンク・アーロン、その所属球団アトランタ・ブレーブスを応援していた。阪急ブレーブスとの縁は、少年時代に始まっていた。オールバニ州立大の野球部には、後に近鉄入りするラルフ・ブライアントの兄ウィルバー氏もいた。日本球界との縁は、ここにもあった。
75年には、NFLニューヨーク・ジェッツのドラフト16巡目指名を受けたが、左膝故障で入団を辞退した。その後アラバマ州に戻り、地元の中学校で教員となる。両親とも教師だったことに影響を受け、1年間保健体育を教えた。76年春、パイレーツと契約した。
メジャーに昇格した2年目の秋、所属していたツインズが阪急にブーマー氏の保有権を売却。野球を続けるには、日本行き以外に選択の余地はなくなった。そこから10年もプレーするとは、頭の片隅にもなかった。ヤクルトと近鉄で活躍したチャーリー・マニエル氏(現フィリーズGM付シニアアドバイザー)から、日本球界の話を取材。「ピッチャーが打たれると、キャッチャーが代わることもあるぞ」。はじめは冗談だと思ったが、公式戦で実際に目にして驚いたという。
ブーマー氏 一方的に日本行きを言い渡された時は、品物扱いされたような気がしたよ。キャンプ地の高知に着いたら、なんと雪が降っているじゃないか。メジャーでキャンプといえば、温暖なフロリダやアリゾナで行う。びっくりしたね(笑い)。
初年度の83年は17本塁打と不本意に終わる。それでも持ち前の洞察力で、満を持して2年目を迎えた。
ブーマー氏 1年目はキャンプでちょっと張り切りすぎ、シーズン中に疲れが出た。そこで2年目は戦略的に、体力を温存することを覚えたんだ。
万全の状態で臨んだ84年、ブーマー氏は打ちまくる。5月の2割9分8厘を除く各月で3割をクリアする安定の打撃を見せ、外国人では初の3冠王に輝き、MVP。チームもリーグ優勝を果たし、名将上田利治監督を胴上げした。
ブーマー氏 上田さんは、私をリラックスさせるため「野球はジョブ(仕事)じゃない。ゲームなんだ」と繰り返し言ってくれた。昨年亡くなったときは、本当に悲しかったよ。
そのブーマー氏が最高の思い出に挙げたのが、前代未聞の「予告ホームラン」だ。オリックス球団1年目の89年9月16日近鉄戦(藤井寺)5回、佐々木修から左翼席にたたき込んだ。
ブーマー氏 あの打席では近いところに投球が来て、頭に血が上った。そこでバットでレフトスタンドをさし「あそこに打つぞ」とやったんだ。そのときの映像があったら見たいなあ。
92年ダイエー(現ソフトバンク)で現役を退いた。印象深いのは、南海からオリックスに移籍し、89年から2年間同僚となった門田博光氏(70)だという。V争いを展開した89年終盤には、ハイタッチした際に脱臼させてしまうという事件もあった。また、ともに戦った名投手山田久志氏(70)も深く尊敬している。
ブーマー氏 門田さんの件は残念な出来事だった。人生にはこんなことも起きるんだ、と思った。彼は底知れぬパワーを持っているのに温厚で、怒っているのを見たことがない。山田さんはいつもクールで、洗練されていた。日本のチームメートは皆、今でも私には家族のような存在だよ。
◆ブーマー・ウェルズ 本名はグレッグ・ウェルズ。1954年4月25日生まれ、米国アラバマ州出身。オールバニ州立大を経て76年にパイレーツと契約。インディアンス傘下を経て77年ブルージェイズと契約し、81年に同球団でメジャー初出場。82年ツインズを経て83年阪急入団。本塁打王1度、首位打者2度、打点王4度。現役時代は200センチ、100キロ。右投げ右打ち。引退後は代理人へと転じ、ナイジェル・ウイルソン(日本ハム-近鉄)、アロンゾ・パウエル(中日-阪神)らを日本球界に送り込んだ。
◆ブーマー氏とライバルたち 現役時代のブーマー氏は、多士済々な猛者たちとタイトル争いを繰り広げた。84年に3冠王に輝いたが、翌年85年から今度は落合博満が2年連続で3冠王に。88年には門田博光が、40歳にして本塁打、打点の2部門を制した。88年途中に中日から近鉄に移ったブライアント、89年途中に来日したデストラーデなど、助っ人強打者たちも好敵手だった。また外国人選手の通算成績でも、本塁打、打点で5位につけるなど、主要部門で10傑入りしている。