シーズンオフ企画で阪神ナインの原点、足跡をたどる「猛虎のルーツ」。第5回は今季、レギュラー奪回を目指す阪神高山俊外野手(26)です。日大三-明大とアマ球界のエリート街道を歩んできた安打製造機に、知られざる空白の時期があった。日大三の恩師・小倉全由監督(62)が秘話を明かした。【取材・構成=奥田隼人】

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高山は入学当初から、才能の片りんを見せた。地元千葉の「船橋中央シニア」から、名門日大三に進学。小倉監督は「身体能力が高い子でした。他の選手とは違った、体の強さを持っていた」と入学当初を振り返る。中学時代は遊撃や投手を務め、県内の陸上大会で入賞するほどの快足を持ち合わせていた。高校では大型遊撃手として期待を受けたが、打撃が買われてすぐに外野手へコンバートされた。1年秋から「1番右翼」のレギュラーを奪取。都大会でいきなり活躍し、エリート街道を歩み始めた。

2年春のセンバツでも1番打者で出場したが、4試合で15打数2安打と結果が振るわなかった。そして迎えた決勝。スタメン表から高山の名前が消えた。守備での途中出場のみで打席に立てず、チームは敗れた。小倉監督は「いま思えば、自分が我慢して使っていたら打っていたんじゃないのかなと。自分の方の期待が大きくて『お前なら、もっと、打たなきゃダメだよ』というね」と当時の心境を語った。

1番に最も打てる選手を置く。打線の顔として、初回先頭から相手にインパクトを与えるためだ。それが小倉監督の信念だった。「それが負担になっちゃったのかも分かんない。他のチームにいる選手よりは打っているんですけどね…」。苦笑いしながらも、高山への思いは期待の裏返しでもあった。

センバツ決勝を機に、スタメンを外れることが増えた。それでも決して腐ることなく、黙々と練習を重ねたという。2年秋の新チームから再び「1番」に戻り、チームの中心選手となった。3年夏の甲子園では打順は1番から5番に変わり、大活躍。決勝では先制3ランを放つなど、優勝に貢献した。

高山の3年間を振り返る小倉監督の口からは、後悔の言葉が多かった。「もっと自分がうまく気持ちを乗せてやりながら、あまり負担をかけないで、自分のバッティングをやらせてやればね」。夏の甲子園を2度制した名将をも惑わせ、期待させるほどの天性を高山は持っていた。たぐいまれなセンスでヒットゾーンに運ぶ才能。高い身体能力から繰り出される驚異的な飛距離。2つの才能を持ち合わせるからこそ、指導者の期待はより大きくなるという。

「高山は来たボールを打っているのだと思う。ただ、素晴らしい打球がいった時を評価してしまう。ヒットゾーンに落として、それでヒットになったというのはあまり目がいかなかった。素晴らしい打球があるんだから、これで打てと。そういった面では、難しい選手なのかも分からないですよね」。

指導者を悩ます高いポテンシャル。時折見せる天才的な打撃は、当時から間違いなく超高校級だった。

◆19年の高山 開幕1軍スタートも、すぐに2軍降格。4月下旬に再昇格を果たした。5月29日巨人戦(甲子園)では、延長12回に劇的なサヨナラ満塁弾。以降は糸井の離脱などもあり、主に対先発右腕でスタメン起用が増えた。105試合に出場(先発は62試合)し、打率2割6分9厘、5本塁打、29打点。打撃面以外でも守備に安定感が増し、積極的な走塁も目立った。今季は熾烈(しれつ)な外野手争いを勝ち抜き、レギュラーを勝ち取る。

◆高山俊(たかやま・しゅん)1993年(平5)4月18日、千葉県船橋市出身。飯山満小1年から「ホワイトビーストロング」で野球を始める。七林中では船橋中央シニアに所属。日大三高では1年秋から右翼でレギュラー。11年夏の甲子園優勝。明大では4年間で131安打を放ち、東京6大学リーグ通算最多安打記録を48年ぶりに塗り替えた。15年ドラフト1位で阪神入団。16年リーグ新人王を獲得。181センチ、88キロ。右投げ左打ち。