希代のバットマンが、節目に亡き母を思った。巨人坂本勇人内野手(31)が、史上53人目の通算2000安打を達成した。ヤクルト24回戦(東京ドーム)の1回2死、ヤクルト・スアレスから二塁打を放った。右打者では史上最年少。球団生え抜きでは6人目で、初となる本拠地のファンの前で決めた。観戦に訪れた父、高校時代の恩師、仲間、空から見守る母へ。2001、2002安打と重ね、次なる大台へ歩を進めた。

   ◇   ◇   ◇

万雷の拍手が東京ドームに響き渡った。二塁ベースに達した坂本は手をたたき、天井を見つめた。母が見守る空にもしっかりと見えるように、受け取った花束を高く、高く、掲げた。

「今日は父親が来てくれていたので、いいところを見せられてよかった。母にはオフになったら、お墓参りに行って『2000本打ったよ』と報告したい」。

1回2死、ヤクルト・スアレスの4球目、真ん中低め128キロのスライダーを左翼線にはじき返し、節目に到達。2打席目にはバックスクリーンに放り込み、2001安打目を刻んだ。

「一番、応援してくれてたのは母親。今もどこかで見てくれてるのかなって思います」

プロ1年目の07年6月19日、母輝美さんを47歳の若さで亡くした。その約1カ月前の5月12日の日本ハムとの2軍戦(姫路)。がんを患いながら、スタンドで観戦した母の前で本塁打を放った。プロで唯一の勇姿を見せられたが、1軍で活躍する姿を見せられぬまま旅立った。

「僕個人の話なんでね。少し照れくさいのもありますし、周りも暗くなるんじゃないかなって」

これまで多くを語ることはなかったが、1年に2度、母を思いながらプレーする。母の日には登場曲をG2の「LETTER~おかんに贈る音の手紙~」に変更。命日の通算打率は3割4分6厘。今もバットで思いを伝える。

シーズン開幕が遅れた今季、導かれるように「6月19日」に開幕戦を迎えた。新型コロナウイルスに感染し、開幕直前に10日間入院。わずか6日間の調整でグラウンドに立った。2000安打まで残り116本。7回1死、今季初安打となる左前打で偉業へのカウントダウンをスタートした。

いつも母親譲りの反骨心ではい上がってきた。小学校高学年からは運転する車で計測してもらった6キロのコースをランニング。重心を下げたフォームを支える下半身の土台を築いた。中学3年時には家庭教師を雇って、二人三脚で受験勉強。「目標点数を言われて、マジで勉強した」。

中学3年時には、進学先を探す中で屈辱的な言葉を伝え聞いた。「守備はいいけど、打てない。左打者に転向するなら、可能性はある」。地元兵庫の強豪校からの評価に「絶対、見返してやる」と母と燃えた。

プロへの道は、仲間がつなぎ留めてくれた。高1の冬、年末年始のオフに地元に帰省。青森・八戸の寮に戻った坂本の鼻にはピアスの穴が開いていた。「監督、野球やめます」。荷物をまとめ、1度は本気で野球をやめると決め、自宅に帰った。

地元の友達と夜通し遊ぶ中、高校の仲間からはメッセージが届いた。「待ってるぞ」。数日後、ふと思った。「楽しいけど、何か違うわ。やっぱり、野球がしたいな…」。監督、チームメートに頭を下げ、チームに戻った。それが、母の願いでもあった。

少年時代、家族で米シアトルに旅行し、マリナーズ・イチローの華麗な打撃に魅了され、安打を求める道は始まった。自宅で飼ったティーカッププードルは「ヒット」と命名。グラウンドを離れても「ヒット」を愛した。

「今でも野球がうまくなりたい。どれだけヒットを重ねても、打ちたい気持ちは変わらない。3000本はもちろんあるけど、まずは2500を次の目標に」

「勇人」-。父の願いが込められ、元首相の池田勇人から命名された。勇ましく、Hランプを積み重ね、家族へ、仲間へ、恩師へ感謝の2000安打を届け、3000安打への道をスタートさせた。【久保賢吾】

◆日本プロ野球名球会 通算2000安打を達成した坂本は名球会入りの資格を得た。名球会(78年発足)の参加資格は日米通算記録が投手は200勝か250セーブ以上、打者は2000安打以上。山本浩二理事長。

◆坂本勇人(さかもと・はやと)1988年(昭63)12月14日、兵庫県伊丹市生まれ。青森・光星学院(現八戸学院光星)で06年春の甲子園に出場。同年高校生ドラフト1巡目で巨人入団。12年最多安打、16年首位打者、最高出塁率、19年リーグMVP。ベストナイン5度、ゴールデングラブ賞3度。15年から主将。186センチ、85キロ。右投げ右打ち。今季推定年俸5億円。