4球団競合の末に、ドラフト1位で近大・佐藤輝明内野手(21)が阪神に入団した。日刊スポーツでは誕生から、プロ入りまでの歩みを「佐藤輝ける成長の軌跡」と題し、10回連載でお届けします。【取材・構成=奥田隼人】

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阪神ドラフト1位の近大・佐藤輝明内野手(21)には、約2年にわたる我慢のノースロー期間があった。 小学6年時にタイガースジュニアに選ばれたが、大会直前の11月に右肘を故障。ボールが投げられなくなった。順調なら中学は強豪硬式チームに進むはずだったがケガの治療を最優先。地元西宮市の甲陵中軟式野球部に入った。肘の状態は遊離軟骨がはがれる寸前の状態。除去手術を受ける選択肢もあったが、若さや負担を考慮して自然治癒の可能性にかけた。

入部後もノースローは続いた。チームは部員数約80人の大所帯で、下級生は練習スペースも限られていた。輝明はノースローはもちろん、グラウンドではバットすらほとんど振らなかった。練習に出て走り込みをするか、治療のために参加せず帰宅するという日々が続いた。患部をかばう生活も徹底。右腕で重い物は一切持たず、グラウンドを整備するトンボも左で持ってかけた。

当時の野球部顧問、西川和秀(36=現香川・高松第一中軟式野球部顧問)は、当時の様子を明かした。「自分が見ていた限りでは、ボールを投げている姿は見たことがなかった。ただ、焦っている様子はなかった。目的意識がハッキリしている子。ケガを治すというのが最大の目的で入ってきたので。だから、『練習に来れないこと、みんなと同じ練習ができないことを気にしないでいいから』という話はしました。自分のペースを大事にするということは、ずっと終始一貫していた。それは彼の良いところだと思いますね」。

両親の献身的なサポートもあった。患部に効くと聞けば、調べて漢方も飲ませた。父博信(53)は息子を励ますため、同じ肘の故障から復帰したアスリートたちの話を聞かせ伝えた。輝明は大学生の時、「あの時、おやじからそういう風に言われたから頑張れた。ああいうおやじの一言って、結構でかいんやで」と、さりげなく感謝を父に伝えたという。父博信は息子が我慢を貫いた日々を「投げれないんじゃなくて、投げなかったですね。あの時、先(将来)を見てたのかもしれません…」と振り返った。

ノースローは中学2年の9月ごろまで続いた。最上級生となる新チームになると、ケガも完治して通常の練習に復帰。試合にも出られるようになった。当初は大事を取りながら右翼で出場していたが、3年春からは捕手に転向。4番として活躍し、夏の総体では前年日本一の強豪校も倒した。3年夏に部活を引退すると、受験勉強に専念。だが、志望校合格はかなわず、自宅から近い西宮市内の仁川学院に進むことになった。(敬称略、つづく)