日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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1981年(昭56)に監督復帰した上田だが、世代交代によって顔ぶれも変わっていった。3シーズンは勝てなかったが、84年に6年ぶりのリーグ優勝を達成する。

チームは端境期で、投手は今井雄太郎、佐藤義則、山沖之彦、内野は福原峰夫、弓岡敬二郎、松永浩美、捕手の藤田浩雅、外野が簔田浩二、山森雅文らがメンバーに名を連ねた。

チーム改革の断行は優勝する年の高知市営球場での春季キャンプに表れた。通例では、OB、評論家はケージ裏でチェックするものだ。監督は部外者のグラウンド入りを一切禁止したのだ。

球界の重鎮も、マスコミも、チーム関係者以外のすべてのグラウンド入りを許可しなかった。普段から上田は取材には協力的だったが、練習に取り組む選手に集中させたい意図が働いたようだ。

また阪急の優勝をさかのぼってみると、補強の成功例が顕著だ。それは外国人の働きにも反映された。84年はブーマー・ウェルズが来日2年目で外国人選手初の3冠王を獲得した。

現在、ブーマーは米国ジョージア州の自宅で、妻デブラと悠々自適の2人暮らしの日々を送っている。すでに仕事からはリタイアし、3年前には娘ミカも嫁いだ。

大リーグで実績の乏しい巨体の助っ人を見初めたのは、球団幹部の矢形勝洋だ。75年からの4連覇に貢献したベネズエラ出身ボビー・マルカーノ獲得も、この男の手腕だった。

82年ミネソタ・ツインズでわずか15試合出場にとどまったブーマーは「野球を続けるには日本行き以外の選択肢はなかった。まるでひとつの“商品”にでもなったような気分だった」という。

「矢形には『キャンプ地の高知はフロリダのようなところだ』と聞かされていた。でも行ってみたら雪が降ってたから驚いた。『日本を楽しんでくれ』と何度も言われたよ」

ロッテとの開幕戦で水谷実雄が頭部死球を受けて負傷。上田が「4番」に起用したブーマーが打力をカバーする。日本球界で育った外国人の典型例だった。

「初めて会ったときの上田監督はとても厳格な人に見えたが、実際にはフレンドリーで、洞察力あふれる方だったね。外国人選手にも分け隔てなく接した。野球は『仕事』ではなく『ゲーム』なんだと、私がリラックスできるよう努めてくれた」

上田自身にとって5度目のリーグ優勝。いくら勝てども“西本遺産”とやゆされた知将にとっては至福の喜びだったに違いない。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。

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