「暗黒時代」と呼ばれた1990年代で虎党が夢を見たシーズンがあった。野村ヤクルトと競り合い、85年以来7年ぶりの優勝にひた走った92年。中村勝広監督(現阪神GM)のもと亀山、新庄ら新星を生み、「タイガース復活」を印象づけた熱狂は、ある試合を境に流れが変わった。「八木の幻のサヨナラ弾」―。球史に残る9月11日、甲子園でのヤクルト18回戦を軸に激動の1年を振り返る。

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甲子園のスコアボードは、阪神のサヨナラ勝ちを告げていた。1992年9月11日、阪神―ヤクルト18回戦。3―3の9回裏2死一塁で、八木の打球は左翼方向に伸びた。打球を追って背走した左翼の城友博は、スタンドに寄りかかるようにへたり込んだ。二塁塁審の平光清が右手をぐるぐる回し「ホームラン」のジャッジ。阪神のイニングに「2×」が記された。

4万5000人(主催者発表)の大観衆は沸き返った。球場職員はグラウンドにお立ち台を運び込んだ。興奮のるつぼと化した甲子園。あとは、ヒーロー八木の登場と「六甲おろし」の大合唱を待つばかりだった。

だが午後9時52分で、甲子園の時間は止まった。

現在の阪神GMで92年当時は監督としてチームを率いた中村勝広は振り返る。 中村 一塁側ベンチにいたぼくの目には、ホームランに見えた。

だが中村の視界に、審判に走り寄るヤクルト中堅の飯田哲也、さらには三塁側ベンチから歩き出した敵将、野村克也の姿が飛び込んできた。ラバーフェンスに当たってからスタンドに入ったのだと食い下がるヤクルト側の猛抗議に、審判団は協議を始めた。現在は阪神で2軍打撃チーフコーチを務める当事者の八木は述懐する。

八木 ぼくはホームランとは思わなかった。打った瞬間、弾道が低いと思った。ラッキーゾーンの時代ならまだしも、この弾道の低さでは入らないと思った。なんとか外野手の頭を越えてくれと祈りました。2死だしフルカウントだし、一塁走者のパチョレックはスタートを切っていた。外野手の頭を越えさえすれば、サヨナラだと思った。

勝利を信じ、ダイヤモンドを走る打者走者の目にも審判の平光の姿が映った。

八木 弾道は低かったけれど、手応えはありました。塁間を走っていたら、二塁から打球の方向を追っていた平光さんが手を回すのが見えた。えっ、入ったの !? と半信半疑だったけれど、本塁でチームメートは待っているし、お立ち台も運ばれてきた。広報からも「ヒーローインタビューやりましょう」と声をかけられました。でも準備をしているときに、野村監督が歩いていくのが見えました。いったんはサヨナラ本塁打と判定して、終わらせた試合。それを覆せるのかなと、考えていました。

一塁側ベンチもざわつき始めた。当時の打撃コーチ、佐々木恭介が中村に「打球の跳ね返りがおかしい。入ってないのと違いますか」とささやいた。「まさか !? 」。中村の、そして八木の不安は直後、現実のものになった。平光がベンチにやってきた。【堀まどか】