92年5月26日、甲子園の大洋戦に、20歳の新星が「7番・三塁」で先発出場した。1―1の2回、シーズン初先発、初打席の初球に来たカーブを左翼スタンドに運び、プロ1号にしたのが新庄剛志だった。

のちに米大リーグのジャイアンツで日本人初のワールドシリーズ出場を果たし、06年には日本ハムを日本一に導いてユニホームを脱いだ男。他の選手が夢見ることを現実にやってのけた新庄は、本格デビュー時から派手だった。5月14日の中日戦(福井)で、オマリーがファウルを打った際に右手首を痛めた。同22日の精密検査で「右手根骨剝離骨折で全治3週間」と診断された。長期離脱は必至となった主砲に代わり、監督の中村勝広はプロ3年目新庄の三塁抜てきを決めた。

新庄は開幕2軍ながら、ウエスタン・リーグ6本塁打で1軍に上がって来た。「ファームで練習していた自分の力を全部出そうと思っていた」という20歳の一撃で、中村の決断は吉と出た。

5月28日、初代ミスター・タイガース藤村富美男氏が亡くなった命日の大洋戦(甲子園)でも、新庄は打った。6回2死満塁で決勝打。翌29日の巨人戦では、桑田真澄のストレートを甲子園のバックスクリーンに打ち込んだ。これでもかこれでもかと結果を出す新庄に、中村も「ほめ言葉すらないほど素晴らしい」と絶賛を惜しまなかった。

新庄だけでなく、若虎の台頭があった。4月4日の開幕ヤクルト戦(神宮)から新人の久慈照嘉を遊撃に、5年目の山田勝彦を正捕手に抜てき。さらに4月8日の巨人戦(東京ドーム)では、プロ5年目の亀山努を「2番・中堅」で起用した。

亀山はすぐに結果を出した。一塁への猛烈なスライディングで2本の内野安打を稼ぎ、シーズン初のG倒に貢献。翌9日の同戦も2盗塁2得点で巨人に連勝した。俊足に加え、果敢なヘッドスライディング。1つでも先の塁を目指し、1つでも多くの打球をアウトにしようとするプレーは阪神ファンをとりこにした。同25日の中日戦(ナゴヤ)で、中村は打率1割台の不振にあえいでいた岡田彰布に代え、好機で亀山を代打に送った。タイガースの顔だった岡田への代打は、長年の低迷を経て生まれ変わろうとしているチームに〝聖域〟はないことを示した。

今は阪神1軍でバッテリーコーチを務める山田は、23年前を振り返る。

山田 みんな無我夢中。若くて、怖いもの知らずで、毎日の試合に必死でした。熱さがありました。さらに捕手のぼくとしては、八木さん、亀山、新庄がそろった外野陣は本当に頼もしかった。たいがいの打球なら捕ってくれる、処理してくれる安心感がありました。

中村 亀山、新庄、久慈らタイガースの財産になる若手が出てきてくれた。優勝争いができたことで、監督としても自信にもなった。

虎は変わる ! そう印象づけたシーズンだった。【堀まどか】(敬称略)